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主に政治と経済について、思いついたことを語ります。リンクフリー、コピーもフリー
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竹森俊平の新書版。1997年のタイに発生した通貨危機、思わぬ通貨の暴落があったが、この「危機」について「返済能力危機」と認識するか、または「流動性の危機」と認識するかによって対処の仕方が変わってくるとして「論述」しているが、これでは、ドルペッグという固定相場制、しかも資本の移転を禁止しない固定相場制と変動相場制の「質」的な差という理論的な視点が全く欠如したマクロ認識となってしまう。竹森はあえてその理論的な「差」を無視しているのだろうが、それが何故なのかは筆者には解からない。「甦る経済論戦」では、固定相場制と変動相場制の差をあれほど詳しく論述していたのだが・・・。ま、それは由として、返済能力の欠如か、流動性の危機かという認識によって、米国サブプライム問題を見ていくことも出来ると思われる。
 この立論と似通った論理の構成を持つものを新聞紙上で見かけた。小林慶一郎が、サブプライム問題をローンを借り住居の購入をした住宅購入者の返済能力の欠如にあるとして、米国政府FRBの通貨供給の増大による対応策に対して、流動性の危機、不足に対応するだけでよいのかと23日付け朝日新聞朝刊で論じている。 

 貯蓄と投資のバランスから米国経済から世界経済についての「資金」がありあまっているという展開は、竹森ならではのマクロ的類推であるにもかかわらず、相場制ついての論述が全く無いのは期待していただけに、肩透かしにあったような気分を持った。しかしながら「バジョット・ルール」や「ナイトの不確実性」、「質への逃避」、など 竹森の著作には、キーワードを読みながら直近におきている具体的な経済事象を理解させてくれる手腕がある。これだけでも読む価値はあることは間違いない。
 貯蓄が投資を上回ることで生まれる不況圧力
 
 この立場は(マクロ)経済の総需要と総供給のバランスに注目する。こういうことだ。いま、一国において500兆円分の財・サービスの生産、つまり総供給が実現したとする。その結果、500兆円分の収入が同時に発生するが、それは賃金や利子の支払い、あるいは利潤の配当という形で家計に所得として還元される。家計には、所得を消費に回すか、それとも貯蓄に回すかの選択がある。消費に回せば、そのまま総供給に対する需要となる。しかし貯蓄に回せば、そのままでは総供給に対する需要につながらない。このため、総供給の全額が家計に所得として還元されたとすれば、総供給に対する総需要は貯蓄の分だけ不足する。
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かなり古い94年代の本であるが、小宮隆太郎の貿易黒字・赤字の経済学を読んだ。人気エコノミスト、リチャード・クーとの論戦や、米国の貿易黒字削減要求の誤謬、昨今またぞろ採り上げられることが多くなった「前川レポート」の誤り、三重野元日銀副総裁の経常収支の捕らえ方に賛意を表明する話などが掲載されていて興味深い。エコノミスト実務家VS学者の論争が小宮側から「学問」の視点から語られる。「学問」の人、小宮の視点が明瞭に現れていて、面白い。経常収支の黒字と赤字についての認識の方法が「学問」としての経済学の立場から容認しがたいとして当時の米国との貿易摩擦、米国の日本に対する貿易黒字の削減要求に誤謬を指摘する。
 詳しいレビューは後ほどにするが、抑えておくべき観点は、経常収支は、当期の総貯蓄から総投資を引いたものに等しいこと。総貯蓄から総投資を引いた均衡式の結果として、貿易黒字または貿易赤字がある、ということで輸出が得、輸入が損という問題ではない。また、それに付随して資本収支の赤字と黒字がその当期に発生するということである。貿易輸出国は、資本もまた輸出しており、その輸出は資本収支赤字とされる。貿易黒字国は、他国に資本を、対外投資をしてるのだから、黒字を非難されることも、また、黒字の削減を他国から求められる筋合いは、「経済学」の基本から考えた場合、まったくないということである。対外投資は、経済活動の労働、資本、土地の三要素のひとつを占めるわけだから、資本のすなわち投資は、他国の経済活動の利益になることであって、大きく評価されるべきことであると述べている。
 また、IS-MLの基本式である。IS曲線は財・サービス市場の均衡を表し、LM曲線は、実質貨幣残高市場の均衡を表す。この交点が、利子率と国民所得を決定する。
 更に本著の後半でマンデル・フレミングの理論が、変動相場制の開放経済下でのそれが採り上げられる。開放経済下では、財政の支出によっては景気の回復は難しく、金融政策によら無ければ、国民所得が増えない結果となる理論だが、これが現状「国際」経済のうちにあっては説得的な理論としてあるということは抑えておくべきだろう。
 といって、敬遠するほどのことが述べられているわけではなく、マクロ経済学の入門程度の知識があれば、十分理解できる。
安達の最も新しい著作である。もっと早めにアップすべきだったのだが、遅いことがとり得(?)の筆者であるからご容赦。
 さて、安達の論には、常に豊富データによって、「レジームの転換」歴史的に何時起きたのかという視角がある。デフレの克服とデフレの解消という二つの類似はするが、前者は中央政府と中央銀行の自覚的政策であり、解消は中央がその自覚無く、雪崩式に解消されていったという不作為の「政策」によるもので二つには大きな違いがある。デフレの解消には、円安ということによって、達成されるという認識が、安達にはあるのであろう。そして、無自覚な政策が、デフレ解消に向かうのにどのように作用していくかを見極める手立てとして豊富なデータが使われ「説得」することに使われる。その手際は、リフレ政策提唱者としても「異色」であるが、現状の日本の経済の状態を眺めるには、この異色さが、リフレーションの金融作用を知るには必要事項となっている。
現代史の争点 (文春文庫)
秦郁彦の現代史の論考。現代史の主として4つの項目について歴史的検証を経て中核に切り込んでいる重要な論考が収められている。4つの現代史の争点のひとつは南京虐殺事件。南京虐殺事件は中国が述べるような膨大なものではなかったが規模が小さくはあったとして極右と極左(特にアイリス・チャンの「レイプ・オブ・ナンキン」の虐殺「証拠写真」の捏造を徹底的に暴いて糾弾する。その他の争点では、従軍慰安婦の件が扱われる。それについては、従軍慰安婦の存在自体を否定することはしないし、また、日本国の法的責任は無いがその道義的責任まで否定するものではないとする。

 

三土 修平 / 筑摩書房(2007/01)
Amazonランキング:15140位
Amazonおすすめ度:

これは中々の傑作。本作で高橋 哲哉の靖国論批判されているのがいい。こいつのナショナリズム論、「靖国」論にはまったく同意できない。戦後にあって、戦没者の慰霊さえ否定するやからなんて、「左翼」でも「社民」思考でもなんでもないんだが、これにまったく気づかない所謂「知識人」左翼の典型だからな。とほほ。
 高橋は確か哲学者だとかだったんだと思うが、「哲学者」なら、<存在>論として、人間存在に「ナショナリズム」に傾倒するという「情念」や「他者」を完全に抹殺してしまう獣性が宿っていることぐらい分るだろうというもの。そうした滾り立つ「情念」と「諦観」などを視野に入れたことでも探求し克服できるだけの「哲学」を思考したらどうなんだ。
 といって、靖国に参拝することを奨励する靖国派の、例えば小堀桂一郎らの靖国「理論」など、さらに噴飯ものである。靖国参拝は、宗教行為ではなく、「道徳」の次元の問題だと反靖国派の論理を交すためにぬかす。 靖国派の「道徳」論は、神道の儀礼行為を媒介にしているから共同性をそのまま持っている。それによっかって共同性の理論展開を図るから、厄介である。社会的儀礼行為と神道的儀礼行為は、分けて論じなければならない羽目に陥る。
 「道徳」は、社会の共同規範であるから、社会派が扱うべき観念であるが、これを分らない極端左翼は、「道徳」について極端な拒否反応を示すのが常である。ここに、極端左翼と左翼の違いの分水嶺がある。 
 
 ま、それは由として、以下は引用。レビューは後で・・・・。

 善し悪しは別として、靖国神社を戦没者追悼の中心的施設と思う感情が遺族のあいだに戦後も色濃く存続していて、そこからの突き上げがあってこそ厚生省も動いたというのが真相に近いのではないか。そういう民衆的基盤なしには、いかに美山要蔵らが策謀をめぐらしたところで、大きな力になりえなかったのではないだろうか。
 更新が滞っているので、まとめて掲載。簡単な感想でも記すことにすると。後日誤読による訂正、ないしは追記も入れる覚書ということで掲載。
戦争の日本近現代史―東大式レッスン!征韓論から太平洋戦争まで (講談社現代新書)

 加藤陽子の歴史本。後掲の「戦争の論理」より読みやすいのは、「新書」の読者向けに作られていること、また、近代史としての通史でもあるから所謂歴史上の論理が示されているからだろう。東大式レッスンという副題が、歴史本として相応しいかどうかは別問題に、通常の事件の記述に終わる「事件史」とはなっていないのが、読み応えを求めるものにとって、それに堪えるものになっている。征韓論から日中戦争まで、九講で纏められている構成になっている。日清戦争時の清国に対する認識、日露戦争時のロシアに対する日本側の捉え方など、「教科書」では収まりきらない歴史の様相を見せてくれるので、非常に面白い。
 日中戦争(支那事変)が、何故宣戦布告なしにそれぞれの国が戦争(事変)を開始したのか、米国の中立法が、原因であったとの記述など、何故その事変が起こされたのかが、国際法、条約、その当時の「思想」家、福沢諭吉、吉野作造、幸徳秋水あるいは、市井の議員、海軍軍令部(加藤寛治)、陸軍参謀(石原莞爾)などの思想としての国防策などを重点的に例証推測していくので、通史としての歴史本より重厚に読解が出来て楽しい。
満州事変から日中戦争へ (岩波新書 新赤版 1046 シリーズ日本近現代史 5)

 これも上記の加藤陽子の歴史本で新書版。岩波の日本近現代シリーズのの中の一冊。満州事変から日中戦争(支那事変)までを、経済史、普通選挙による政党の勢力史、軍部の演説会の姿勢までを含めて、骨格が太い論点の明示と記述文体でぐいぐいと読ませる。
 本著の「はじめに」あるように政治思想家の橋川文三の問い「日本人は、満州事変から日中戦争?を戦争と思っていたのか。」という疑問を改めて注目されてよい問いかけとする。これに答えようとしたのが本作である。「双方が相手国に対して国際不法行為を行ったと主張し、自らがとった強力措置は復仇であるから違法ではないと論戦しあう両国、それこそが、日本と中国の姿であった」とする。
 37年7月の勃発したとされる日中戦争は、不思議な戦争だった。宣戦布告も無いまま戦闘が続けられた。「領土の侵略、政治、経済的権益を目的とするもの非ず、日支国交回復を阻害する残存勢力の排除する一種の討匪戦なり」と記す近衛首相の側近が書いた文書が存在したり、「報償」「復仇」である総括する文書が日支派遣軍の極秘文書としてあること自体が、そのように指導層が認識していたことを物語る。あれは字義通りの戦争ではなかったのであろう。
 満洲事変での満州の権益を国民に納得させる上で国内における軍部の演説会での軍事刑法103条に抵触しない形で、「事実」の列挙した上で聴衆の「推断」に任せるという「民主的」な手法には、苦笑させられた。
 骨太な記述の裏には、著者の加藤陽子の歴史についての「結論」など歴史の中にはないとする、うっちゃった強い姿勢が、裏打ちされているのだろうと筆者には感じ採れた。歴史に「教訓」、あるいは、一定の方向への「扇動」を読み取るのは、読み手の姿勢にしか宿らないのだろうと思う。
 半藤一利の「昭和史」土門修平の「参謀の戦争」などと同時並行的に読んでいくと、中々に面白い史点が、出来上がるのではなかろうかと勝手に自分の中では思っている。
戦争の論理―日露戦争から太平洋戦争まで

この論文集は、歴史研究家ではない筆者には、散漫な論文集としてしか思えなかった。研究家には重要な「視点」提供するかもしれないのだろうが・・・・。
 ん、と思った一点挙げれば、学徒動員が太平洋戦争(大東亜戦争)期になされるが、徴兵制について「理系」に対しての学徒動員についての記述が、目を引いた。この視点は、重要だなとも思える。
スティグリッツ教授の経済教室―グローバル経済のトピックスを読み解く

 スティグリッツの2003年から2007年にかけての経済コラム集。スティグリッツは、1997年のアジア通貨危機に対するIMFの救済策内対する問題点を経済学的に明らかにした勇猛果敢なマクロ経済学者。
 タイを発祥とするアジア通貨危機は、「返済能力の問題」か、あるいは「流動性の問題」かであった。IMFは通貨危機を「返済能力の問題」と認識したのである。ここが誤診の始まりで、その誤診の上に、構造解改革の要求まで付け加えた。IMFの97年の対応については後日詳細を明記できたらなと思うが・・・・・。

 IMFの改革も主導したとされている。
 
 また、フリードマン流のマネタリズムに対しても疑問を呈し、インフレターゲットに対しても「実質金利」を下げることで投資が活発になるという経路について疑問を呈して、これを批判している。実質金利は、短期国債と長期国債の相対的な供給量を変えることによって、資産の価格に影響を与え、よって長期実質金利に影響を与えることが出来るとしている。金融政策は実質金利よりも、むしろ信用のアベイラビリティー(可用性)を通じて景気に影響を及ぼすのである、としている。信用供給の方が重要だと説いている。インフレターゲット(物価安定化金融政策)については、スティグリッツは反対しており、2002年時から「転向」したようである。というのも、「スティグリッツによる日本経済再生の処方箋」として黒木氏が掲載している通り、インフレターゲットを再生の処方箋として述べているからである。
 巻頭論文に「21世紀はじめの日本と世界」が掲載。これだけの紙幅があれば、十分に述べたいことが述べられるだろう。似たような経済論集にクルーグマンの「クルーグマン教授の経済入門 (日経ビジネス人文庫)」「良い経済学 悪い経済学 (日経ビジネス人文庫)」があるが、それらとの対比で言うとスティグリッツは「社民」よりの言辞が目立つ。それならそれでいいのだが、その根拠の明示が少なく、理論を説くといった風情がないのも肩透かし気味。

 各コラムが、紙幅の関係もあってだろうが、短いので、それぞれに読み応えがないのが非常に残念。
 
 とはいえ社民的なマクロ経済学が、日本のマクロ経済学者には少ないように思うので、彼のような視点からの日本経済に対する指摘は、すこぶる貴重なことであろう。マクロ経済が、あまりに「自由主義」へ傾斜しているのは、その学者が自由主義=価値観からも自由であるとの錯覚を持つことからも、正当性を過激に主張する根拠を与えることになり、「政治的」に危険でさえあるからである。
生物と無生物のあいだ (講談社現代新書 1891)

 息抜きには丁度良い一冊。生物学ってのも、学派の争いがあるのね。それと生物と無生物のあいだは、やっぱ弁証的に構成されているのだわな、ちゅうことがよーく解かる。ウイルスという存在も弁証的で、生物であって、生物でないという「矛盾」したありようがある。弁証法が生きているのが、「科学」であると勝手に思っているものにとって、溜飲の下がる想いがした。
 前半は、DNAについてのお話で、ワトソン、クリック、ウィルキンスが登場して、DNAの二重らせん構造の発見の物語で、それがまた研究者ならではの微細なところまでの記述が、発見までの詳細が読ませる。
円の足枷―日本経済「完全復活」への道筋


1997年――世界を変えた金融危機 (朝日新書 74)


頭を冷やすための靖国論


日中戦争 殲滅戦から消耗戦へ (講談社現代新書)

 著者の小林英夫は、日中戦争を支那事変とは呼ばない。それだけでも、是非はともかくかなり<左>に固執した歴史観の持ち主であろう。副題にある殲滅戦争から消耗戦争へとあるように、石原莞爾の「世界最終戦争論」の批判を念頭に置いた日中戦争に於ける「軍部」批判が見られる。その姿勢について、是非を述べるほどの歴史的知識はないが、<右>派から攻撃される「自虐史観」に通抵する史観ではなかろうかと思える。歴史の右派のよる史観も初めに「結論」ありきの歴史や東京裁判の見方、あるいは、靖國論があるのだが、それはそれで、歴史<左派>の初めに「結論」ありきの歴史観を訂正、ないしは、検討を促す提言として受け止めた方が「学問」的であるのではないか、と思う。問題提起としての右派の役目であり、修正箇所の指摘と歴史左派は受け止めて行けばよいのでは無いか。
 感想から遠のいたが、加藤陽子の歴史本と合わせて読み込むと戦争の歴史について深みを以って接することが出来るだろうとは思えた。小林の軍部の「外交」力の欠如は、想定できるのだが、それが何故出来なかったのかは、つらづらと過去への思いを重ねることであり、また、歴史に「解決」など求めることもまた野暮なことだろうとは、最近は思う。
八幡神と神仏習合 (講談社現代新書)
いうまでも無く神道の全国4万社とも言われる八幡神について書かれた本。神道には教義らしい啓典は存在しないが、儀礼は存在する。また、祭られる神々の素朴さにも様々な様態がある。神仏習合の八幡大菩薩までが存在するのも興味深い信仰の形である。正確には読めるほどの神道知識は無いが、なんとも奥深く、「歴史」があるのを実感する。
 
「神身離脱思想
 山岳修行者が地方を遊行することはさまざまな意味をもつ。彼らは不思議な呪力をもつ宗教者であるとともに、各地をめぐり歩く情報運搬者でもあり、地域社会に与える影響ははかり知れないものがあっただろう。彼らの遊行は七世紀後半からであり、律令国家体制になっている。この体制下では、これまでの地方豪族はことごとく郡司などの新しい地方行政官になり、引き続き地域の支配に当たっているので豪族層と記す。彼らが豪族層をはじめ大衆と盛んな接触をおこなう中で、神仏関係に大きな転換が起こってくる。おそらくこの転換は、山岳修行者からの働きかけによるところが大きいと考えられる。
 それは神身離脱思想という新たな思想の登場である。その内容を要約すると、神は神であること自体を宿業(すくごう)前世の報い(むく)として苦悩している。そのことが神威の衰えをきたすことになり、結果は、風雨不順・五穀不作・疫病蔓延といった現象として現われ、地域社会の安穏が損なわれていく。苦悩する神は仏の力を借りて救われたいと望んでいる。つまり、神は仏法を悦びたたもうたのである。そうすることによって神威を増し、再び地域社会の安泰を保持することができる。明らかに仏教的立場からの内容であることがわかる。この思想は『金光明最勝王経』 滅業障品(めつごうしようぼん)によっているとされる)。
いまや、これまで通りの神であっては、地域社会の要望に応えきれなくなっており、どうしても仏教の呪力が必要なのだ、というところから出た考えである。山岳修行者によって鼓吹れるこの思想は、まず豪族層への説得としてなされ、修行者と豪族層との間に、新しい神仏関係の具体的な実現策が考え出されていく0神仏習合がここに初めて現象(形)となって登場するのである。」p43

 著者の逵 日出典の八幡神とその信仰をはぐんだふるさとに対する愛着には、敬服の念を持つ。

半藤 一利 / 平凡社(2004/02/11)
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「賢者は歴史に学び、愚者は体験に学ぶ」
 昭和史の主に「戦争」の姿が描かれるのだが半藤の歴史観には、この「箴言」が生きているように思える。ともあれ、昭和は前半を知るにはうってつけの一冊だろう。教科書の歴史?では知ることが出来ない歴史が、ここにはあり、知っておくべきこと、歴史の面白さもここにある。新聞というマスコミが、ラジオという速報性をもった新しいメディアに対抗するが上でも、読者を悪戯に戦争へ煽り、読者としての「国民」が、さらに過激に戦争への要求へと向かっていくエスカレートの循環も描かれている。
 
 体験だけに固執した「結論」は、社会性無き失敗とも成功とも覚束ない「結論」だけが、生き延びてしまう。大学生以上の人たちが、読む歴史の教科書だと指定してもいいほどに、右にも左にもぶれず、資料を読み込んで歴史を語っているので思っていた以上に<中立>であり、またこなれた語り口が採用されていて、読みやすい。重大な時局に、昭和天皇の判断が挿入されていて、天皇制の是非はともかく、天皇の判断の的確性に驚かされる。

 ま、昭和史といっても、お受験的知識しかない筆者には「戦争」をめぐっての軍部内の実情と対庶民の関係の変化が知ることができただけでも収穫は大きかった。昭和の戦争についての総括らしきものは、個人的には出来てはいないのだけど、個人的に関心の強い時局から読み取って行くのも「歴史」認識のひとつの方法だわな、と勝手に思っている。そこで、2.26事件には関心があるので、その事件のくだりを引用させてもらう。

飯田 泰之 / 筑摩書房(2006/11)
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だめな議論を、分析的に見抜くためのだめ議論のまとめと具体的紹介本。

アウトラインを簡単に示すと・・・。

ダメな議論が形成される過程
 
 ラポール(何となく気が合う)
→ストックスピール
 (誰でも当てはまる問いかけ)
→セレクティブメモリ
 (印象深い出来事は記憶に残る)
→COLD READING
 (性格や悩みを言い当てられたと思わせ
  他者を説得し誘導する技術)

こうした感情的な賛同に対し、水を差すことができるようにするための基本チェックポイント

①定義の誤解・失敗はないか
②無内容または反証不可能な言説
③単純なデータ観察で否定されないか
④比喩と例話に支えられた主張
⑤難解な理論の不安定な結論

である。 
 
 さて、本には様々な種類があるが、小説や漫画など自分の趣味であれば、さほどの社会的な風潮に対してさほど害は無いのだが、「評論本」を読むのが好きな人たちは、自分の見解を補強するため「評論本」を自分の趣向にあった「評論」を読む傾向がある。これについては、誰しも免れることが出来ないことであろうが・・・・。
 
 その姿勢は、自らが気づくことのない、自分の傾向性の補強のために読んでいることになる。私人はこれで、この方法が間違っているわけではないが、こうした「私の論」が公論のような役割を、また常識のような役割を社会的に果たすとき、社会には有害に作用することになる。
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