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 更新が滞っているので、まとめて掲載。簡単な感想でも記すことにすると。後日誤読による訂正、ないしは追記も入れる覚書ということで掲載。
戦争の日本近現代史―東大式レッスン!征韓論から太平洋戦争まで (講談社現代新書)

 加藤陽子の歴史本。後掲の「戦争の論理」より読みやすいのは、「新書」の読者向けに作られていること、また、近代史としての通史でもあるから所謂歴史上の論理が示されているからだろう。東大式レッスンという副題が、歴史本として相応しいかどうかは別問題に、通常の事件の記述に終わる「事件史」とはなっていないのが、読み応えを求めるものにとって、それに堪えるものになっている。征韓論から日中戦争まで、九講で纏められている構成になっている。日清戦争時の清国に対する認識、日露戦争時のロシアに対する日本側の捉え方など、「教科書」では収まりきらない歴史の様相を見せてくれるので、非常に面白い。
 日中戦争(支那事変)が、何故宣戦布告なしにそれぞれの国が戦争(事変)を開始したのか、米国の中立法が、原因であったとの記述など、何故その事変が起こされたのかが、国際法、条約、その当時の「思想」家、福沢諭吉、吉野作造、幸徳秋水あるいは、市井の議員、海軍軍令部(加藤寛治)、陸軍参謀(石原莞爾)などの思想としての国防策などを重点的に例証推測していくので、通史としての歴史本より重厚に読解が出来て楽しい。
満州事変から日中戦争へ (岩波新書 新赤版 1046 シリーズ日本近現代史 5)

 これも上記の加藤陽子の歴史本で新書版。岩波の日本近現代シリーズのの中の一冊。満州事変から日中戦争(支那事変)までを、経済史、普通選挙による政党の勢力史、軍部の演説会の姿勢までを含めて、骨格が太い論点の明示と記述文体でぐいぐいと読ませる。
 本著の「はじめに」あるように政治思想家の橋川文三の問い「日本人は、満州事変から日中戦争?を戦争と思っていたのか。」という疑問を改めて注目されてよい問いかけとする。これに答えようとしたのが本作である。「双方が相手国に対して国際不法行為を行ったと主張し、自らがとった強力措置は復仇であるから違法ではないと論戦しあう両国、それこそが、日本と中国の姿であった」とする。
 37年7月の勃発したとされる日中戦争は、不思議な戦争だった。宣戦布告も無いまま戦闘が続けられた。「領土の侵略、政治、経済的権益を目的とするもの非ず、日支国交回復を阻害する残存勢力の排除する一種の討匪戦なり」と記す近衛首相の側近が書いた文書が存在したり、「報償」「復仇」である総括する文書が日支派遣軍の極秘文書としてあること自体が、そのように指導層が認識していたことを物語る。あれは字義通りの戦争ではなかったのであろう。
 満洲事変での満州の権益を国民に納得させる上で国内における軍部の演説会での軍事刑法103条に抵触しない形で、「事実」の列挙した上で聴衆の「推断」に任せるという「民主的」な手法には、苦笑させられた。
 骨太な記述の裏には、著者の加藤陽子の歴史についての「結論」など歴史の中にはないとする、うっちゃった強い姿勢が、裏打ちされているのだろうと筆者には感じ採れた。歴史に「教訓」、あるいは、一定の方向への「扇動」を読み取るのは、読み手の姿勢にしか宿らないのだろうと思う。
 半藤一利の「昭和史」土門修平の「参謀の戦争」などと同時並行的に読んでいくと、中々に面白い史点が、出来上がるのではなかろうかと勝手に自分の中では思っている。
戦争の論理―日露戦争から太平洋戦争まで

この論文集は、歴史研究家ではない筆者には、散漫な論文集としてしか思えなかった。研究家には重要な「視点」提供するかもしれないのだろうが・・・・。
 ん、と思った一点挙げれば、学徒動員が太平洋戦争(大東亜戦争)期になされるが、徴兵制について「理系」に対しての学徒動員についての記述が、目を引いた。この視点は、重要だなとも思える。
スティグリッツ教授の経済教室―グローバル経済のトピックスを読み解く

 スティグリッツの2003年から2007年にかけての経済コラム集。スティグリッツは、1997年のアジア通貨危機に対するIMFの救済策内対する問題点を経済学的に明らかにした勇猛果敢なマクロ経済学者。
 タイを発祥とするアジア通貨危機は、「返済能力の問題」か、あるいは「流動性の問題」かであった。IMFは通貨危機を「返済能力の問題」と認識したのである。ここが誤診の始まりで、その誤診の上に、構造解改革の要求まで付け加えた。IMFの97年の対応については後日詳細を明記できたらなと思うが・・・・・。

 IMFの改革も主導したとされている。
 
 また、フリードマン流のマネタリズムに対しても疑問を呈し、インフレターゲットに対しても「実質金利」を下げることで投資が活発になるという経路について疑問を呈して、これを批判している。実質金利は、短期国債と長期国債の相対的な供給量を変えることによって、資産の価格に影響を与え、よって長期実質金利に影響を与えることが出来るとしている。金融政策は実質金利よりも、むしろ信用のアベイラビリティー(可用性)を通じて景気に影響を及ぼすのである、としている。信用供給の方が重要だと説いている。インフレターゲット(物価安定化金融政策)については、スティグリッツは反対しており、2002年時から「転向」したようである。というのも、「スティグリッツによる日本経済再生の処方箋」として黒木氏が掲載している通り、インフレターゲットを再生の処方箋として述べているからである。
 巻頭論文に「21世紀はじめの日本と世界」が掲載。これだけの紙幅があれば、十分に述べたいことが述べられるだろう。似たような経済論集にクルーグマンの「クルーグマン教授の経済入門 (日経ビジネス人文庫)」「良い経済学 悪い経済学 (日経ビジネス人文庫)」があるが、それらとの対比で言うとスティグリッツは「社民」よりの言辞が目立つ。それならそれでいいのだが、その根拠の明示が少なく、理論を説くといった風情がないのも肩透かし気味。

 各コラムが、紙幅の関係もあってだろうが、短いので、それぞれに読み応えがないのが非常に残念。
 
 とはいえ社民的なマクロ経済学が、日本のマクロ経済学者には少ないように思うので、彼のような視点からの日本経済に対する指摘は、すこぶる貴重なことであろう。マクロ経済が、あまりに「自由主義」へ傾斜しているのは、その学者が自由主義=価値観からも自由であるとの錯覚を持つことからも、正当性を過激に主張する根拠を与えることになり、「政治的」に危険でさえあるからである。
生物と無生物のあいだ (講談社現代新書 1891)

 息抜きには丁度良い一冊。生物学ってのも、学派の争いがあるのね。それと生物と無生物のあいだは、やっぱ弁証的に構成されているのだわな、ちゅうことがよーく解かる。ウイルスという存在も弁証的で、生物であって、生物でないという「矛盾」したありようがある。弁証法が生きているのが、「科学」であると勝手に思っているものにとって、溜飲の下がる想いがした。
 前半は、DNAについてのお話で、ワトソン、クリック、ウィルキンスが登場して、DNAの二重らせん構造の発見の物語で、それがまた研究者ならではの微細なところまでの記述が、発見までの詳細が読ませる。
円の足枷―日本経済「完全復活」への道筋


1997年――世界を変えた金融危機 (朝日新書 74)


頭を冷やすための靖国論


日中戦争 殲滅戦から消耗戦へ (講談社現代新書)

 著者の小林英夫は、日中戦争を支那事変とは呼ばない。それだけでも、是非はともかくかなり<左>に固執した歴史観の持ち主であろう。副題にある殲滅戦争から消耗戦争へとあるように、石原莞爾の「世界最終戦争論」の批判を念頭に置いた日中戦争に於ける「軍部」批判が見られる。その姿勢について、是非を述べるほどの歴史的知識はないが、<右>派から攻撃される「自虐史観」に通抵する史観ではなかろうかと思える。歴史の右派のよる史観も初めに「結論」ありきの歴史や東京裁判の見方、あるいは、靖國論があるのだが、それはそれで、歴史<左派>の初めに「結論」ありきの歴史観を訂正、ないしは、検討を促す提言として受け止めた方が「学問」的であるのではないか、と思う。問題提起としての右派の役目であり、修正箇所の指摘と歴史左派は受け止めて行けばよいのでは無いか。
 感想から遠のいたが、加藤陽子の歴史本と合わせて読み込むと戦争の歴史について深みを以って接することが出来るだろうとは思えた。小林の軍部の「外交」力の欠如は、想定できるのだが、それが何故出来なかったのかは、つらづらと過去への思いを重ねることであり、また、歴史に「解決」など求めることもまた野暮なことだろうとは、最近は思う。
八幡神と神仏習合 (講談社現代新書)
いうまでも無く神道の全国4万社とも言われる八幡神について書かれた本。神道には教義らしい啓典は存在しないが、儀礼は存在する。また、祭られる神々の素朴さにも様々な様態がある。神仏習合の八幡大菩薩までが存在するのも興味深い信仰の形である。正確には読めるほどの神道知識は無いが、なんとも奥深く、「歴史」があるのを実感する。
 
「神身離脱思想
 山岳修行者が地方を遊行することはさまざまな意味をもつ。彼らは不思議な呪力をもつ宗教者であるとともに、各地をめぐり歩く情報運搬者でもあり、地域社会に与える影響ははかり知れないものがあっただろう。彼らの遊行は七世紀後半からであり、律令国家体制になっている。この体制下では、これまでの地方豪族はことごとく郡司などの新しい地方行政官になり、引き続き地域の支配に当たっているので豪族層と記す。彼らが豪族層をはじめ大衆と盛んな接触をおこなう中で、神仏関係に大きな転換が起こってくる。おそらくこの転換は、山岳修行者からの働きかけによるところが大きいと考えられる。
 それは神身離脱思想という新たな思想の登場である。その内容を要約すると、神は神であること自体を宿業(すくごう)前世の報い(むく)として苦悩している。そのことが神威の衰えをきたすことになり、結果は、風雨不順・五穀不作・疫病蔓延といった現象として現われ、地域社会の安穏が損なわれていく。苦悩する神は仏の力を借りて救われたいと望んでいる。つまり、神は仏法を悦びたたもうたのである。そうすることによって神威を増し、再び地域社会の安泰を保持することができる。明らかに仏教的立場からの内容であることがわかる。この思想は『金光明最勝王経』 滅業障品(めつごうしようぼん)によっているとされる)。
いまや、これまで通りの神であっては、地域社会の要望に応えきれなくなっており、どうしても仏教の呪力が必要なのだ、というところから出た考えである。山岳修行者によって鼓吹れるこの思想は、まず豪族層への説得としてなされ、修行者と豪族層との間に、新しい神仏関係の具体的な実現策が考え出されていく0神仏習合がここに初めて現象(形)となって登場するのである。」p43

 著者の逵 日出典の八幡神とその信仰をはぐんだふるさとに対する愛着には、敬服の念を持つ。

 『エコノミストミシュラン』(2003年11月7日、初版)のp.100からの抜粋。野口とは野口旭のことである。野口の「理論家」としての冴えがみられる箇所。


野口:まあ、気持ちは解りますが、ただそれだと、財務省さえ動けばいいという話ですよね。それにはちょっと異論がある。仮に財務省がどんどん為替介入をしても - 実際にいまもそれをさかんにやっているわけですが - 日銀がスタンスを変えないとすると、日銀の資産がどんどん外債におきかわるだけです。

日銀当座預金残高の目標はいま30兆ですが、それには日銀の資産の裏づけがあるわけです。財務省が為替介入をするときには、外国為替資金証券(外為証券)という短期国債の一種を発行して、それを日銀に買い取らせて、そのお金で外債を買います。こうして、日銀の資産側には事実上は外債である外為証券が増えていくわけです。他方で、財務省の介入の結果、市場に円が流れ込んでいくわけですが、そこで制約になるのは、30兆円という日銀当座預金残高の目標です。日銀がこれを一定としている限り、介入で市場に流れ込んだお金は、短期国債とか手形といった日銀の持つ他の資産の売却によって、市場から日銀にすべて回収されてしまうことになる。要するに、自動的に介入の不胎化がおこなわれてしまう。ここで、日銀の持つ外為証券を外債とみなせば、そのネット効果は、日銀の持つ国内資産を単に外債におきかえることでしかない。これでは、ベースマネーはまったく増えないわけで、介入の円安効果さえもほとんど期待できなくなってしまう。


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