主に政治と経済について、思いついたことを語ります。リンクフリー、コピーもフリー
半藤 一利 / 平凡社(2004/02/11)
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「賢者は歴史に学び、愚者は体験に学ぶ」
昭和史の主に「戦争」の姿が描かれるのだが半藤の歴史観には、この「箴言」が生きているように思える。ともあれ、昭和は前半を知るにはうってつけの一冊だろう。教科書の歴史?では知ることが出来ない歴史が、ここにはあり、知っておくべきこと、歴史の面白さもここにある。新聞というマスコミが、ラジオという速報性をもった新しいメディアに対抗するが上でも、読者を悪戯に戦争へ煽り、読者としての「国民」が、さらに過激に戦争への要求へと向かっていくエスカレートの循環も描かれている。
体験だけに固執した「結論」は、社会性無き失敗とも成功とも覚束ない「結論」だけが、生き延びてしまう。大学生以上の人たちが、読む歴史の教科書だと指定してもいいほどに、右にも左にもぶれず、資料を読み込んで歴史を語っているので思っていた以上に<中立>であり、またこなれた語り口が採用されていて、読みやすい。重大な時局に、昭和天皇の判断が挿入されていて、天皇制の是非はともかく、天皇の判断の的確性に驚かされる。
ま、昭和史といっても、お受験的知識しかない筆者には「戦争」をめぐっての軍部内の実情と対庶民の関係の変化が知ることができただけでも収穫は大きかった。昭和の戦争についての総括らしきものは、個人的には出来てはいないのだけど、個人的に関心の強い時局から読み取って行くのも「歴史」認識のひとつの方法だわな、と勝手に思っている。そこで、2.26事件には関心があるので、その事件のくだりを引用させてもらう。
2・26事件の抜粋である。簡潔にこの事件の本質を捉えていると思う。永田鉄山、小畑敏四郎も元は、陸軍の内部の「改革」派であった。それが時を経て、皇道派が陸相、林銑十郎によって、永田鉄山を軍務局長にすえてから、事態は大きく変わる。相沢事件によって、永田は、皇道派相沢によって、暗殺される。
陸軍内部の統制派(中国一撃論)<永田鉄山>と皇道派(対ソ予防攻撃論)<小畑敏四郎>の対立が、統制派に実権が握られた後の皇道派による北一輝の国家社会主義理論によるクーデターが起きることになる。
「宮城をまるまる占拠しようとしたのです。ではどうするか、自分たちが城内に入り込んで数少ない門をぴた-つと閉めてしまえばいいわけです。ただし歩兵第一、第三連隊の兵隊が何があったって宮城内に入れるわけはありません。入れるのは近衛歩兵連隊だけなのです。そこに近衛歩兵第三連隊の役割が出てくるわけです。
これを率いるのが中橋基明 (なかはしもとあき)中尉です。この中橋中隊は当日は赴援中隊に割り当てられていて、何か事が起きた時には宮城内に自動的に入れます。その中橋中隊約百名がまず宮城に入り、中ですでに守備についている近衛連隊の一中隊を説得して味方に引き入れ、宮城を占拠するという計画を立てました。そして占拠したあとは本庄侍従武官長頼み、ということであったのでしょう。
事実、中橋中尉率いる中隊は半蔵門から宮城に入りました。ところが、ずさんといえばずさんな計画だったんですね。というのは、この連隊が宮城へ行くのに高橋是清邸を通る道があります。現在の虎屋羊羹(とらやようかん)を渋谷の方に進むと左側にある公園が大蔵大臣私邸があったところで、「それならついでに大蔵大臣もやってこい」ということになったのかどうかはわかりませんが、 先ほど言いましたように中橋中隊はそこを襲撃し、高橋是清を惨殺しました。
ちなみに大蔵大臣をなぜ襲ったのか、先にちょつとふれましたが、予算の問題です。増大する軍部の軍事費増額の要求を一切認めず、高橋蔵相が、軍隊がかんかんに怒るくらいに厳しく予算を絞ったというのが理由で、先ほどの岡田、鈴木、斎藤とは違って、これは憎しみのために襲ったといってもいいのかなと思います。
そして中隊は半蔵門に着き、事件勃発だということでともかく宮城内赴援中隊として宮城内に入ったのです。中を守る近衛師団は少なくとも同志ではありませんから合意するかどうかは微妙だったものの、この辺も非常に安易に考えていたようで、たぶん大丈夫だろうと思って乗り込んでいくと、これがオッケーしないんですね。はじめから中橋を危険人物祝している。
ここで歴史にまたイフを持ち出すのはおかしいのですが、もし中橋基明中尉が、もちろん人を一人殺してきていますから気力も萎えていたかもしれませんが、ともかく本気になつていれば…。すなわち、守衛隊司令部で宮城内を守っていた大高少尉は中橋中尉と真っ向から顔を突き合わせて「言うことはきかん、すぐ出て行ってもらいたい」と言った。中橋中尉がそれならば大義のためにと彼を射殺したならば、です。二人とも拳銃を抜き、互いに顔を見合って、と緊迫した状況であったのですから。それなのに現実には、中橋中尉のほうがまず拳銃をしまった、という経緯だったようです。
面白いのは、警視庁を占拠した野中四郎大尉が率いる歩兵第三連隊は、なんと四百名の大所帯です。警視庁といっても、なるほど当時は「新撰組」と称して猛者たちが集まっていたとはいえ今の規模より小さいでしょうから、何も四百人が行く必要があったのか。野中大尉は決起の名義人ですから許されませんでしたが、常盤稔、清原康平、鈴木金次郎ら少尉たちは占拠をしただけで一人も殺してませんので、裁判で死刑を免れて戦後もよく話してくれました。
「四百人も警視庁へ行って一体何をしたのですか」と尋ねると、清原少尉が言うには、とにかくすぐに屋上に上がり、宮城の方を望遠鏡でずっと見ていたと。そして中橋さんの「話はついた。桜田門より入れ」の朗報を待ってどつと宮城に入り、一気に宮城を押さえてしまう計画だったというのです。つまり門のすべてを押さえるために四百人も動員したのです。
そして占拠の後は、仲間と思われる人間にはあらかじめ三銭切手(さんせんきって)を手に射ってくるように伝えておいたというのです。三銭切手が同志の合印です。そうすれば宮城の中に入れるというところまで話は進んでいたのです。
いずれにしろ、二・二六事件の基本には宮城占拠計画があり、それが一番大事な仕事だったのです。が、大高少尉と中橋中尉が拳銃を抜き合って互いに睨み合ったところでお終いになり、いつの間にか中橋中尉その人は宮城から出て行ってしまって反乱軍の将校たちと合流し、中隊長がいなくなった中橋中隊の約百名は、はじめから宮城を守っていた部隊に組み入れられて「坂下門を守れ」などといわれる始末で、今泉義道(いまいずみよしみち)少尉などは「自分たちが反乱軍に回ったのかよくわからないうちに事件が推移していった」というように語っていました。
最大の狙いである宮城占拠はままならず、しかも理解者と思い込んでいた天皇陛下は自分たちに対してまるで同情的でもなかったことがまもなく「叛乱」軍にも理解されることになる」
激流の昭和の歴史を十分堪能させてくれる嬉しい一冊である。
陸軍内部の統制派(中国一撃論)<永田鉄山>と皇道派(対ソ予防攻撃論)<小畑敏四郎>の対立が、統制派に実権が握られた後の皇道派による北一輝の国家社会主義理論によるクーデターが起きることになる。
「宮城をまるまる占拠しようとしたのです。ではどうするか、自分たちが城内に入り込んで数少ない門をぴた-つと閉めてしまえばいいわけです。ただし歩兵第一、第三連隊の兵隊が何があったって宮城内に入れるわけはありません。入れるのは近衛歩兵連隊だけなのです。そこに近衛歩兵第三連隊の役割が出てくるわけです。
これを率いるのが中橋基明 (なかはしもとあき)中尉です。この中橋中隊は当日は赴援中隊に割り当てられていて、何か事が起きた時には宮城内に自動的に入れます。その中橋中隊約百名がまず宮城に入り、中ですでに守備についている近衛連隊の一中隊を説得して味方に引き入れ、宮城を占拠するという計画を立てました。そして占拠したあとは本庄侍従武官長頼み、ということであったのでしょう。
事実、中橋中尉率いる中隊は半蔵門から宮城に入りました。ところが、ずさんといえばずさんな計画だったんですね。というのは、この連隊が宮城へ行くのに高橋是清邸を通る道があります。現在の虎屋羊羹(とらやようかん)を渋谷の方に進むと左側にある公園が大蔵大臣私邸があったところで、「それならついでに大蔵大臣もやってこい」ということになったのかどうかはわかりませんが、 先ほど言いましたように中橋中隊はそこを襲撃し、高橋是清を惨殺しました。
ちなみに大蔵大臣をなぜ襲ったのか、先にちょつとふれましたが、予算の問題です。増大する軍部の軍事費増額の要求を一切認めず、高橋蔵相が、軍隊がかんかんに怒るくらいに厳しく予算を絞ったというのが理由で、先ほどの岡田、鈴木、斎藤とは違って、これは憎しみのために襲ったといってもいいのかなと思います。
そして中隊は半蔵門に着き、事件勃発だということでともかく宮城内赴援中隊として宮城内に入ったのです。中を守る近衛師団は少なくとも同志ではありませんから合意するかどうかは微妙だったものの、この辺も非常に安易に考えていたようで、たぶん大丈夫だろうと思って乗り込んでいくと、これがオッケーしないんですね。はじめから中橋を危険人物祝している。
ここで歴史にまたイフを持ち出すのはおかしいのですが、もし中橋基明中尉が、もちろん人を一人殺してきていますから気力も萎えていたかもしれませんが、ともかく本気になつていれば…。すなわち、守衛隊司令部で宮城内を守っていた大高少尉は中橋中尉と真っ向から顔を突き合わせて「言うことはきかん、すぐ出て行ってもらいたい」と言った。中橋中尉がそれならば大義のためにと彼を射殺したならば、です。二人とも拳銃を抜き、互いに顔を見合って、と緊迫した状況であったのですから。それなのに現実には、中橋中尉のほうがまず拳銃をしまった、という経緯だったようです。
面白いのは、警視庁を占拠した野中四郎大尉が率いる歩兵第三連隊は、なんと四百名の大所帯です。警視庁といっても、なるほど当時は「新撰組」と称して猛者たちが集まっていたとはいえ今の規模より小さいでしょうから、何も四百人が行く必要があったのか。野中大尉は決起の名義人ですから許されませんでしたが、常盤稔、清原康平、鈴木金次郎ら少尉たちは占拠をしただけで一人も殺してませんので、裁判で死刑を免れて戦後もよく話してくれました。
「四百人も警視庁へ行って一体何をしたのですか」と尋ねると、清原少尉が言うには、とにかくすぐに屋上に上がり、宮城の方を望遠鏡でずっと見ていたと。そして中橋さんの「話はついた。桜田門より入れ」の朗報を待ってどつと宮城に入り、一気に宮城を押さえてしまう計画だったというのです。つまり門のすべてを押さえるために四百人も動員したのです。
そして占拠の後は、仲間と思われる人間にはあらかじめ三銭切手(さんせんきって)を手に射ってくるように伝えておいたというのです。三銭切手が同志の合印です。そうすれば宮城の中に入れるというところまで話は進んでいたのです。
いずれにしろ、二・二六事件の基本には宮城占拠計画があり、それが一番大事な仕事だったのです。が、大高少尉と中橋中尉が拳銃を抜き合って互いに睨み合ったところでお終いになり、いつの間にか中橋中尉その人は宮城から出て行ってしまって反乱軍の将校たちと合流し、中隊長がいなくなった中橋中隊の約百名は、はじめから宮城を守っていた部隊に組み入れられて「坂下門を守れ」などといわれる始末で、今泉義道(いまいずみよしみち)少尉などは「自分たちが反乱軍に回ったのかよくわからないうちに事件が推移していった」というように語っていました。
最大の狙いである宮城占拠はままならず、しかも理解者と思い込んでいた天皇陛下は自分たちに対してまるで同情的でもなかったことがまもなく「叛乱」軍にも理解されることになる」
激流の昭和の歴史を十分堪能させてくれる嬉しい一冊である。
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