主に政治と経済について、思いついたことを語ります。リンクフリー、コピーもフリー
かなり古い94年代の本であるが、小宮隆太郎の貿易黒字・赤字の経済学を読んだ。人気エコノミスト、リチャード・クーとの論戦や、米国の貿易黒字削減要求の誤謬、昨今またぞろ採り上げられることが多くなった「前川レポート」の誤り、三重野元日銀副総裁の経常収支の捕らえ方に賛意を表明する話などが掲載されていて興味深い。エコノミスト実務家VS学者の論争が小宮側から「学問」の視点から語られる。「学問」の人、小宮の視点が明瞭に現れていて、面白い。経常収支の黒字と赤字についての認識の方法が「学問」としての経済学の立場から容認しがたいとして当時の米国との貿易摩擦、米国の日本に対する貿易黒字の削減要求に誤謬を指摘する。
詳しいレビューは後ほどにするが、抑えておくべき観点は、経常収支は、当期の総貯蓄から総投資を引いたものに等しいこと。総貯蓄から総投資を引いた均衡式の結果として、貿易黒字または貿易赤字がある、ということで輸出が得、輸入が損という問題ではない。また、それに付随して資本収支の赤字と黒字がその当期に発生するということである。貿易輸出国は、資本もまた輸出しており、その輸出は資本収支赤字とされる。貿易黒字国は、他国に資本を、対外投資をしてるのだから、黒字を非難されることも、また、黒字の削減を他国から求められる筋合いは、「経済学」の基本から考えた場合、まったくないということである。対外投資は、経済活動の労働、資本、土地の三要素のひとつを占めるわけだから、資本のすなわち投資は、他国の経済活動の利益になることであって、大きく評価されるべきことであると述べている。
また、IS-MLの基本式である。IS曲線は財・サービス市場の均衡を表し、LM曲線は、実質貨幣残高市場の均衡を表す。この交点が、利子率と国民所得を決定する。
更に本著の後半でマンデル・フレミングの理論が、変動相場制の開放経済下でのそれが採り上げられる。開放経済下では、財政の支出によっては景気の回復は難しく、金融政策によら無ければ、国民所得が増えない結果となる理論だが、これが現状「国際」経済のうちにあっては説得的な理論としてあるということは抑えておくべきだろう。
といって、敬遠するほどのことが述べられているわけではなく、マクロ経済学の入門程度の知識があれば、十分理解できる。
詳しいレビューは後ほどにするが、抑えておくべき観点は、経常収支は、当期の総貯蓄から総投資を引いたものに等しいこと。総貯蓄から総投資を引いた均衡式の結果として、貿易黒字または貿易赤字がある、ということで輸出が得、輸入が損という問題ではない。また、それに付随して資本収支の赤字と黒字がその当期に発生するということである。貿易輸出国は、資本もまた輸出しており、その輸出は資本収支赤字とされる。貿易黒字国は、他国に資本を、対外投資をしてるのだから、黒字を非難されることも、また、黒字の削減を他国から求められる筋合いは、「経済学」の基本から考えた場合、まったくないということである。対外投資は、経済活動の労働、資本、土地の三要素のひとつを占めるわけだから、資本のすなわち投資は、他国の経済活動の利益になることであって、大きく評価されるべきことであると述べている。
また、IS-MLの基本式である。IS曲線は財・サービス市場の均衡を表し、LM曲線は、実質貨幣残高市場の均衡を表す。この交点が、利子率と国民所得を決定する。
更に本著の後半でマンデル・フレミングの理論が、変動相場制の開放経済下でのそれが採り上げられる。開放経済下では、財政の支出によっては景気の回復は難しく、金融政策によら無ければ、国民所得が増えない結果となる理論だが、これが現状「国際」経済のうちにあっては説得的な理論としてあるということは抑えておくべきだろう。
といって、敬遠するほどのことが述べられているわけではなく、マクロ経済学の入門程度の知識があれば、十分理解できる。
そこで、本作の論理が理解できることになる。そこで、論理の展開がスリルに満ちたものになる。それもまた、評論書の読み方として読書目的とずれるのだが、読書爽快感となることもある。
とかく「学者」連中は、自分の研究領域だけに特化し、そのうちにとどまりがちで、本人たちは特に経済学者は「自由」主義が最上の「価値」だと錯覚している嫌いがある。それは大きな誤謬である。自由主義も一つの価値観に過ぎないからだ。財産の私的所有に自由を認めるということで、資本主義という社会が「法」的に認められているというイデオロギー(観念連合)なのであるとマルクス主義は語るが、それは明らかに正当なのであると認める財産権もまた経済学的に分析できるのだとすることが「学者」の方法である。その位置を、「自由」主義が認めることをしなければ本来の「科学」ではないのだという社会的姿勢がなければならない。そうした意味で、マクロ経済学は、資本主義の「イデオロギー」であることをあっけらかんと認めるべきである。
市場を通して社会が公正な方向に持ち込むことが、そもそものマクロ経済学の目的である。そしてそのために、現実や世間に対する論理的な分析をないがしろにし、政策提言もなく、「研究」のみに没頭することはいささか自然科学的な方向に傾きすぎであり、それが自己目的としてあって、そして自己の領域の「研究」の正当化につながることになる。研究が、現状分析に結びつき専門領域を出来る限り平易にし、読者に対して啓発できるような書き手は、中々に少なく現状の分析だけでなく、書き手としてのある才能が必要なのである。その才能を持ったものが、読者にとっての信頼できる「学者」と呼べるのだろう、と思う。
評論書の読解は、個々の専門家の評論、作文より、対象範囲が広くもてるという意味で、溺れるほどの愉悦がある。その意味では、読解する者たちの方が、著者よりも批評できるという「自由」を満喫できる位置にあるわけだ。
とかく「学者」連中は、自分の研究領域だけに特化し、そのうちにとどまりがちで、本人たちは特に経済学者は「自由」主義が最上の「価値」だと錯覚している嫌いがある。それは大きな誤謬である。自由主義も一つの価値観に過ぎないからだ。財産の私的所有に自由を認めるということで、資本主義という社会が「法」的に認められているというイデオロギー(観念連合)なのであるとマルクス主義は語るが、それは明らかに正当なのであると認める財産権もまた経済学的に分析できるのだとすることが「学者」の方法である。その位置を、「自由」主義が認めることをしなければ本来の「科学」ではないのだという社会的姿勢がなければならない。そうした意味で、マクロ経済学は、資本主義の「イデオロギー」であることをあっけらかんと認めるべきである。
市場を通して社会が公正な方向に持ち込むことが、そもそものマクロ経済学の目的である。そしてそのために、現実や世間に対する論理的な分析をないがしろにし、政策提言もなく、「研究」のみに没頭することはいささか自然科学的な方向に傾きすぎであり、それが自己目的としてあって、そして自己の領域の「研究」の正当化につながることになる。研究が、現状分析に結びつき専門領域を出来る限り平易にし、読者に対して啓発できるような書き手は、中々に少なく現状の分析だけでなく、書き手としてのある才能が必要なのである。その才能を持ったものが、読者にとっての信頼できる「学者」と呼べるのだろう、と思う。
評論書の読解は、個々の専門家の評論、作文より、対象範囲が広くもてるという意味で、溺れるほどの愉悦がある。その意味では、読解する者たちの方が、著者よりも批評できるという「自由」を満喫できる位置にあるわけだ。
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