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半藤 一利 / 文藝春秋
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 日本政府は、愚かにもソビエト、スターリンの仲介により、戦争の終結を図ろうとする。当時、妄想の国、日本ではソビエトは救世主であったのである。満洲での仮想敵国は、ソ連であった。そのために関東軍を作ったのである。その仮想敵国が、救世主となったのである。その救世主が45年、8/9に日ソ中立条約を破棄し、日本に宣戦布告する。この出来事に一部の人たちを除き、新聞マスコミなど、多くの日本人は失望と落胆を抱いたのである。その動揺の姿が、今から思えば異様でさえもある。特に政府、日本軍部はソビエト軍部の実像とかけ離れた、ありもしない願望であるソビエトが仲介してくれるという妄想に酔っていたのである。以下引用。 
 六人の最高戦争指導会議は「連合国との一般的な講和を締結する上で、ソ連に仲介を頼む」という国策方針を決定。鈴木貫太郎総理は、ソビエトの仲介を期待するあまりスターリンを西郷南州に似ているとまで絶賛していた有様であった。ソビエトの仲介への有り余る期待とそんな期待が裏切られた動揺と落胆の姿を引用しよう。

 「日本の政軍の指導層が、ソ連による和平仲介という甘い考えをもったように、国民もまた奇妙なほどにこの日までソ連へ信頼を傾けていた。ソ連が米英に知られないように密かに裏側から日本へ石油を送りこんできているとか、日ソ間の協定なって明日の世界のためソ連は米英に宣戦を布告するとか、そんな流言が乱れとんでいた。それを本気で信じている日本人も少なくなかった。しかし、いまやその迷蒙は完全に一掃された。ひとりよがりの愚昧な確信は、鉄槌がこれを木っ端微塵にしてくれた。広島で同じく被爆した詩人の峠三吉も、八月九日の日記に悲痛の文字を書き入れる。「ソ連もわが国に宣戦布告せる旨を知る。遂にわずかに残れる理想も夢も捨て、遠からず我らも死する覚悟をする。爆撃の惨苦の中に、灯もなき闇の中に、ソ連との開戦を聞かねばならぬ我々である」 作家の海野十三は、この日の日記にソ連への怒りをぶちまけている。「ああ久しいかな懸案状態の日ソ関係、遂に此処に至る。それと知って、私は五分ばかり頭がふらついた。……これも運命であろう。二千六青年つづいた大日本帝国の首都東京が、敵を四囲より迎えて、いかに勇戦して果てるか。それを少なくとも途中迄、われらこの目で見られるのである。…=・暢彦が英に聞いている。『なぜソ連は日本に戦争を仕掛けてきたの』。彼らには不可解なことであろう」「なぜソ連が日本に戦争を?」 - その背後にどんなに複雑怪奇ともいえる国際政治のかけひきがからんでいることか。それを知らない日本人には、ただ殺到するソ連戦車に理解を超えた無気味さを感じ、襲いくるソ連兵が不吉で真っ黒な悪魔の化身のごとくに思えたとしても、それはごく自然なことであったかもしれない。 また、英文学者の福原麟太郎は日記に端的に書き記した。「七時のニュースを妻ききおりしが、八月九日をもってソヴィエット対日宣戦と伝えしという。原子爆弾に加うるにこのことあり。日本の危機ついに来る。これよりいかに生きむか。沈思の要あり」 このように当時の暗澹たる状況下に書かれた日記を書きならべてくると、日本国民にとって、ソ連の対日参戦の報がいかに驚天動地の衝撃であったことかがよくわかる。それというのも、戦争中の日本人はソ連という国を″敵″にしたくはないという強い想いを抱き、そのあまり″味方″なのだとする勝手に裏返った気持を、ひそかに育てていた。そのように思われてならない。 作家高見順の日記には、そんな複雑な気持を示す文字が綴られている。「ソ連の宣戦は全く寝耳に水だった。情報通は予感していたかもしれないが、私たちは何も知らない。むしろソ連が仲裁に出てくれることを秘かに心頼みにしていた。誰もそうだった。新聞記者もソ連に対して阿談的とも見られる態度だった。そこヘソ連の宣戦。」
 1945年8/9ソ連は、スターリンの指揮の下、日本に宣戦布告。長崎に原爆が投下された当日である。1945年8/15いわゆる昭和天皇による玉音放送が流され、ポツダム宣言受諾により全面降伏にいたるが、ソビエトとの戦闘は実質終結していないのである。正式なソ連との戦闘停止の調印を日本政府は、愚劣にも失念ししていたのである。いや、戦争停止ということが、ポツダム宣言の受諾によってソビエトとも停戦に至ると思い込んでいたのである。しっかりとした国際法の専門家も無き浅知恵の結末である。その間に悲劇と惨劇が満洲にてソビエト軍よって繰り広げられる。
 そして、8月30日、日本本土予定より一時間も早く「パターン号」は厚木基地に着陸。マッカーサーが、カーキ色の服に、サングラス、丸腰で、コーンパイプを手に『パターン号』より降りる。9月2日、東京湾に浮かんだ米国戦艦ミズリー号で、降伏文書の調印式が行われる。
 その間でのソビエト軍の居留民、開拓民に対する略奪と殺戮、軍人による集団強姦などの人間の負性を剥き出しにした横暴が続行されていた。まさに惨憺たる人間の地獄を呼び込むものとなった。被殖民者の中国人達の略奪と人買いが居留民に対して行われ、さらに開拓民の間では集団自決が、いや、日本民族的感性に依る悲しくも凄惨なる殺し合いさえもが始まったのである。引用する。
 「満洲の大小の都市などの市民の苦難のことを概括的に書いてきたが、それ以上に忘れてならないのは、国境付近より脱出行をつづけている居留民や開拓団のことであろう。 
 くり返すことになるが、都市の住民はもちろんのこと、たしかに一時期は辺境の居留 民や開拓団も「優越民族」としての生活を、国境に近い町や村で享受していたことである。それも植民地支配のための関東軍の威力を背景にしてのことであった。しかし、ある日、関東軍の栄光の虚像は崩れ、惨憺たる敗走がはじまった。そのとき軍は足弱なかれらをあっさりと見捨ててしまう。昨日までの加害者のかれらは急転直下、今日の被害者へ追いやられたのである。開拓団は満州全土のいたるところで無防備のまま放りだされ、最悪の路をそれぞれの判断で日本軍の保護を求めさまよい歩かねばならなくなった。そのかれらをソ連軍が急追してくる.さらに現地人が仕返しの意味もふくめて匪賊のごとく襲いはじめた。関東軍の敗退と、根こそぎ動員によって屈強のものがいないと知ると、「これまで親しんできた満洲人の友さえも加わって」暴徒化して、現地人がかたまって日本人難民に波状攻撃をかけてきたかれらはときに日本製の銃をもっているものもあった。男子なし武器なしの開拓団も、ところによってはレンガ、鍋、釜を割って投げつけたりして応戦した。なかには十五、六歳の子供たちが斬り込み隊を組織して戦い、最後は全員が自決して果てた熊本県来民(くたみ)開拓団のようなグループもある。 開拓団は逃げながら、日を追って、愛する祖国日本は降伏したにちがいないと考える点で、みんな一致した。そのことでいっそう絶望的にならざるをえなくなる。結果として、だれもが無慈悲になり、疲労因嘩者や負傷者がでたりすれば置いてきぼりにした。 とり残されたものはやがてソ連兵や暴民によってみな殺しにされることも悟るようになった。彼らはあらゆる哀れみの感情を失い、なんとしてもソ連軍の攻撃から逃れようという熱望から、ただただ歩かねばならないと思い歩き続けた。なんどもなんども暴民や武装匪賊の襲撃ですべてを奪われ、乞食以下となった日本人の行列に、中国人や朝鮮人が「粟を買わんか」「とうもろこしは要らんか」と声をかけてくる。指導者が「決して買ってはならんぞ。この行列はまだ金があるとみたら、また襲ってくるに違いないから」と止めた。また、幼い子供をつれて歩いているものには、中国人が「子供をくれ、子をおいてゆけ」とうるさくつきまとい、ついには、「女の子は五百円で買うよ。男の子は三百円だ、それでどうだ」と値段をつけてまでして、執拗そのものであった。 この子供買いについては、俳優の故・芦田仲介氏の証言もある。芦田氏は当時、満洲電業のサラリーマンで、安東で終戦を迎えた。そして一方月かかって奉天まで難民となって歩いたという。そのときのことである。「途中でなんども略奪をうけた。赤ん坊のおむつまで盗られた。おむつ二、三枚ですね、残ったのは。娘の亜子が生まれて五カ月くらいですか。満人が子供を売れっていう。女の子が五百円で、男の子は三百円でした」 子供買いの値段が、いくつかの体験談のなかで奇妙に一致している。 それにしても、こうした逃避行において、もっとも悲惨であったのは、その誕生にもその生活の選択にも、いささかも責任のない子供たちであったことだけはたしかなのである。ある。いまも残留孤児の報を聞くたびに、その思いを深くする。事実は、子供たちの多くは野垂れ死にしなければならなかったのである。生命を救われたのはそれでもまだましであったのである。 そして疲れはて追いつめられ絶望的になった開拓団の集団自決が、八月二十日を過ぎたころよりいたるところではじまった生命を守ってくれる軍隊に逃げられ、包囲されて脱出の望みを絶たれた人びとにとって、最後に残された自由は死だけであった。諦め、無関心に陥り、みずから死を選ぶことによって救われようと思う。忍耐の限界を越えると、生きていることはむしろ無意味な苦痛となっていく。信濃毎日新聞社が取材して伝えた清洲東部の勃利市近くの「佐渡開拓団あと」での集団自決は凄惨そのものである。「涙でぐしょぐしょに顔をぬらしながらヒキガネを引いた。妻を、子供を、親を、知人を。これ以上のむごい現実がこの世の中にあるでしょうか」数少ない高社郷開拓団の生き残りの人の告白である。この言葉にあるように、自決とはいい条、実は殺し合いであったのである。親が子を、子が親を、兄が妹を、夫が妻を殺して、最後はみずから生命を絶つか、生きのびるかである。どうしてもわが子を殺せないものは、友人の手をかりた。銃や、包丁や農具や、石や、何もなければ素手で、「佐渡開拓団のあと」の高社郷開拓団の悲劇の始まりは、二十二日の早朝、ソ連の偵察機一機が近くの畑に不時着陸したことにあった。これを一部の開拓団員が襲撃し逃げる搭乗員の一人を殺害、機体を焼いてしまった。そのことで集団自決の空気が高まったという。ソ連軍の報復攻撃を恐れたのである。「男は皆殺し」「子供は乱暴され奴隷にされる」という確信にともなう恐怖が団員の胸を圧した。二十四日、団員のあいだには暗黙のうちに集団自決の方針が伝わっていた。八月二十五日午前四時すぎ夜明けの空をふるわせて、自決の銃声がひびく。肉親に、知人に向けられる銃声は絶え間ない。〃火葬場〃にきめられた馬小屋は、しかばねの数を増していった。・・・・『それでは、ひと足おさきに・・・・・・』。子供を両手に、あるいは胸に、火葬場になる馬小屋へと立ち去る人の数がふえた。消えかかる星空に、同胞が同胞を撃つ銃声が鋭い。下田讃治氏(最後に自決)の読経が低く流れるなかを、自決者は、つづいた。髪を振り乱し、目を血ばしらせ、泣き叫ぶ子供を抱きしめて去って行く母親たち。・・・・」この「信濃毎日」が記す「佐渡開拓団あと」の地獄図はそれで終ったわけではない。二十七日には、この場所に集結し残っていた更級郷、阿智郷、南信濃郷など開拓団の人たち千数百人が、ソ連軍の包囲攻撃をうけてほとんど全滅に瀕している。ソ連機焼打ちの報復か、日本軍と誤ったのか、それは定かではない。しかし、ソ連軍の攻撃は徹頭徹尾可烈なものであった。弾雨のなかで、青酸カリで自決する人、ちっぼけな武器を持って突撃して果てた人、砲弾に微塵となって散った人と、なんとか生きのびることを願いつつ、人びとは荒野の土くれと化していった。」 
 9月2日、東京湾に入った戦艦ミズリー号上で、最終降伏文書調印式が行われ、文言上では、戦争は終わる。やっと眼の覚めた日本政府側は、正当なる要求を突きつけることが出来た。引用する。 
 「翌九月三日、ワシレフスキー元帥が新京に入城してくる。そしてもとの関東軍総司令部において、山田乙三大将から、清洲における日本軍の停戦および武装解除の進捗状況についての報告を、勲章をきらめかせながらうけた。″敗軍の将″山田はこの機会をとらえて、「日本軍丁将兵は、ソ連軍側において捕虜として扱われている以上、国際法規にしたがって適時送還されるでありましょうが……」 といった。あっぱれな言葉である。ワシレフスキーは黙っていた。山田の知らぬうちに、すでに日本軍丁将兵のシベリア送りがはじまっていることなどおくびにもださなかった。 山田はつづけた。
 「一般居留民にたいしては、国際法規による保護も与えられていないゆえ、この点いろいろな面における懸念が大であります。しかも冬季を間近にひかえています。この点、とくにソ連側の好意ある取り扱い、すなわち在満二百万の邦人の早期本国帰還方を切望してやまない次第であります」 この懇請に、ワシレフスキーは理解ある態度を示しはした。が、その後の経過をみるとき、山田の申し入れにたいする措置としてはなんらみるべきものはない。 山田乙三大将以下の関東軍丁総司令部の主要職員が、ソ連領内に拉致されたのは、昭和二十年九月六日のことである。いらい彼らはいっさいの情報から遮断された。九月に入つてからも、悲惨を重ねることになった居留民や開拓民が、関東軍を非難し、その無責任を費めても、その日以後は何とも致し方なかった。関東軍は解体というより、消滅してしまったのである。それでも山田以下はワシレフスキーに嘆願書を掟出するなどして、日本人の保護と、一日も早い帰国方を請うという精一杯の努力をしている。 
 が、山田の名義による請願書ということからいえば、実は、問題の一書が残っている。居留民および軍人の処置について日本側の意見をのべた「ワシレフスキー元帥二対スル報告書」で、八月二十九日付のものである。居留民については「共の希望者はなるべく駐満の上、貴軍の経営に協力せしめ、其の他は内地に帰還せしめられ度い」といい、軍人についても同様に、希望者は駐滴、その他は逐次内地帰還を懇願している。しかもその上で、日本軍人の場合は1右帰還迄の間に於きましては極力貴軍の経営に協力する如く御使い願い度いと思います」と記している。先にも書いたとおりスターリンが捕虜五十万のシベリア移送方針を決定したのは八月二十四日であるから、直接的には関係ないというものの、日本側からその「使用」を申し出たと受けとられかねない文面である。 
 この裏側には、陸軍当局の浅はかな構想が存在している。満洲に残ることを希望する居留民や開拓民、ならびに軍人を内地に戻さなくてもすむのではないか、可能なら満洲にこのまま土着させたい、という希望的観測、いや、幻想を陸軍はもっていた。明治以来、大に恐れていた仮想敵国ソ連に、どうしてこんな甘い夢想が抱けたのか、不思議の域をこえている。しかもその地満洲の主権者は中国なのである。そのことを完全に忘却、いや無視している。こうなると、ソビエト側だけの非常だけを攻めるわけには行かないのである。 
 また、その後東京に設置された連合国の対日理事会も、「アジア各地にあった日本将兵の送還はポツダム宣言の条項により行われるものだが、一般日本人の送還は連合国最高司令官の義務ではない」とはっきりいっている。これゆえに、満洲にある一般居留民や開拓団はまったく放置された。国家という大きな力が失われたとき、これらの人びとは侵略や搾取の手先であり、保護するものなき孤立した民族の集団にすぎなくなったのである。まったく裸のまま敵地と化した荒野に放りだされた。日本に帰るまで、殺人、暴行、略奪にさらされ、言語に絶するような恐怖の日々を、かれらはなお送らねばならなかったのである。 前にも書いたが、満洲国という巨大な″領土″をもったがために、分不相応な巨大な軍隊を編制せねばならず、それを無理に保持したがゆえに狼的な軍事国家として、政治まで変質した。それが近代日本の悲劇的な歴史というものである。司馬遼太郎氏がいうように、「他人の領地を併合していたずらに勢力の大を誇ろうとした」、その「総決算が″満洲”の大瓦解で」あったのはたしかである。いまはこの教訓を永遠のものとすることが大事である。荒野に埋もれたあまりにも大きすぎた犠牲を無にしないためにも、肝に銘ずべきことなのである。 
 九月五日朝、カバリヨフ大将が山田総司令官と秦総参謀長をその宿舎(元満洲国総理官邸)に招き、ワシレフスキー元帥の命令であるとして、関東軍総司令部の武装解除を行い、かつ主要将官や参謀をほかに移動せしめる旨を伝えた。そしてその日の夕方には、ソ連軍が追いたてるようにして、山田、秦以外の主な将官、そして草地、瀬島龍三などの参謀をトラックにのせ新京飛行場へと送りこんだ。軍装と一部荷物の携行を認められたが、 かれらもまた捕虜としてシベリア送りが決定づけられたのである。」
 
 卑劣なソビエトの独裁者スターリンは、国際法上の違法性を認識しながらも、満洲居留民に対して、残虐且つ悪行を繰りえし、不埒な「戦利品」の奪取に明け暮れ、数十万者に日本人が強制労働のためシベリアに送られたのであった。 
 対日戦の最終結果が、ソ連情報局の特別声明では発表されたの9月十二日になってからであった。
 
 ソ連の満洲侵攻の理不尽とポツダム宣言受諾後のソビエトの謀略と日本居留民たちへの容赦なき虐殺ぶり怒りをもって描かれている。旧関東軍の満洲に居留していた居留民と開拓団を見殺しにし、宣言受諾後、国際法についての無知から来るソビエトとの降伏調印のをしなかった旧日本政府の無策無能ぶりが、告発されている。歴史の深さと国際法を知らぬエリートたちの無能を知るための近代史本でもあろう。
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