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  岩田規久男の「小さな政府」を問いなおすからの引用になる。自由と平等についても論じられていて、新自由主義からの自由と平等の論理の展開が興味深い。また、教育バウチャーについて「新自由主義」の観点からからも論じられている。 

1 機会の平等と自由 I自由と平等 アメリカの独立宣言は、「すべての人間は平等に創られ、創造主によって、生存、自由、そして幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」と謳っている。これは、人は「神の前において平等である」という宣言である。具体的にいえば、すぺての人は、自分自身の目的を追求する権利を持っており、したがって、他人の目的を促進するための道具としては使われないという権利を持っているということである。この意味での平等は、自由をその一部として含んでいる。すなわち、平等であれば、自由であり、自由と平等とは対立しない。それでは右の同じ意味での平等が重要であるのは何故だろうか。それは人は誰一人として同じではないからである。人はそれぞれ価値観も、好みも、能力も異なっている。そこで人は他人の価値観や好みを押し付けられることなく、自分の価値観と好みに合った人生を送りたいと思う。この意味で、人は自分自身の人生を選択する自由を持つ一方、他人がそうする自由も尊重しなければならない。 

 


 

 

アメリカ独立宣言の起草老であるトーマス・ジェファーソン(一七四三~一八二六年)と同世代の人々は、すべての人は自分自身に対する支配者でなければならないと信じていた。こうしたすぺての人の権利を他の市民や外国からの脅威から保護するために、政府が設立されたのである。しかし、政府が人々のこの権利に対して破壊的になる場合には、人々はその政府を廃止し、この権利を追求できるような新たな政府を設立する権利を持つという点こそが、独立宣言の起草老たちが考えた最も重要な問題であった。 

 †機会の平等と教育 「神の前における平等」や「法の下における平等」の概念は、その後「機会の平等」という言葉で置き換えられるようになった。 それでは、「機会の平等」とは何であろうか。すべての人が同じ機会を持つという平等 はあり得ない。人は生まれながらにして、遺伝的に異なった能力を持っている〇一流の音 菜家やスポーツ選手と全く同じ上うに努力しても、すぺての人が一流の音楽家や一流のスポーツ選手になれるわけではない.一流になれるかどうかを決める最大の要因は遺伝子であろう。 しかし、すべての人が全く同じ機会を持つことはあり得ないとしても、人々に開かれている機会が、皮膚の色や性別や身分などによって決定されることがあってはならない。これが機会の平等の考え方である。 

 このような機会の平等の立場から最も重視されるのは、教育である。低所得者の子供が初等・中等教育を受けることは、費用負担の面から見て極めて困難である。この場合の費用には単に授業料という支出を伴う負担だけでなく、子供が教育を受けることなく働きに出たならば得られたであろう所得を失うという負担が含まれる。この後者の負担が教育を受ける時の最も大きい負担である。 貧しい家庭に生まれた子供は教育を受けることができない。教育を受けられなければ、低賃金の未熟練労働に就くしかなく、低賃金世帯の子も教育を受けられずに貧しくなる。このようにして、貧しい家庭は世代が代わってもいつまでも貧しさから抜け出すことができない。

 しかし貧しい家庭に生まれた子供も教育を受ける機会があればそのもって生まれた能力を開花させるチャンスが与えられる。そうしたチャンスが与えられることこそ、人々に与えられた生存と自由と幸福を追求する権利に他ならない。この意味で、撥会の平等は自由の本質的部分を含んでおり、自由と対立するものではない。 

 教育切符制度 

 ところが、アメリカでも日本でも、機会の平等を推進するはずだった教育制度は大きな問題を抱えている。日本では、いつまでたっても学校でのいじめがなくならず、いじめを原因とする不登校も増大している。大都市の公立学校は荒れており、教育の質が低下しているため、余裕のある家庭は子供を私立学校に入れている。そのための受験競争は幼稚園段階から始まっており、特に私立中学受験は熾烈を極めている。子供を私立の小・中学校にやれる家庭は、教育における選択の自由を持つものの、かれらは私立校の費用を負担するとともに、公立校を維持するための税金も負担しており、二重の負担になっている。 

 公立の小・中学校の質が低下している一因は、消費者の選択が狭められているため、教育サービスの生産者の問に競争原理が働かないことにある。この考え方にたって、フリードマンは教育切符制度を提案している。これは、初等・中等教育年齢層の子供に、政府が授業料等をまかなうための一定額の教育切符を配布する制度である。この教育切符は公立校でも私立校でも使うことができる。親と子供は自分達にとって最も望ましいと思う教育サービスを供給してくれる学校に入るために、この教育切符を使おうとするであろう。入学金と授業料はこの教育切符によって支払われるから、学校はこの教育切符を政府に渡して、それに相当する金額を受け取り、学校を経営することになる。 

 この制度のもとでは、いじめをいつまで経ってもなくせないような公立校には生徒が集まらなくなり、廃校の危機に立たされるであろう。逆に、いじめをなくし、質の良い教育を提供する学校にはたくさんの生徒が集まり、教育切符収入も大きくなる。 こうした消費者の選択が働くようになると、教育サービスの生産者側である学校にも競争原理が働くようになり、いじめが横行していた学校でも、いじめをなくす努力が真剣に払われるようになるであろう。 

 消費者の学校選択の自由を拡大するためには、中央集権的な文部科学省による学校設置基準や指導要綱も大幅に緩和する必要がある。教育切符が利用できる学校の基準を緩和すれば、さまざまな消費者のニーズに合った学校が設立されるであろう。その場合の認可基準は、教育の内容が安定した民主的社会における共通の価値体系を子供達が受け入れるようになるかどうかということであり、それ以上でも以下でもない。こうした改革によって、教育切符収入で、引きこもりの児童を専門に教育する機関の創設・運営も可能になる。この制度によって最も大きな利益を受けるのは、所得が低いため子供を良い学校に入れることのできなかった家庭である。また、これまで子供を私立校に通わせていた家庭も、子供が通う私立校の費用負担と公立校を維持するための税金の負担という二重の負担から解放されるという利益を得る。以上のように教育切符制度は、すぺての子供に教育を受ける機会を平等に与えるという機能を果たす。それだけでなく、教育における消費者主権を確立することによって、教育の生産者側に教育の質を高めようとする誘因を与える。教育切符制度を初等・中等教育に適応するのは、教育の機会の平等という点に加えて、初等・中等教育には外部効果があると考えられるからである。教育に外部効果が存在するのは、人々が最低限の読み書き能力と知識を持ち、ある共通の価値体系を広く受け入れるようにならなければ、安定した民主的な社会は存立できないからである。この意味で、子供の教育から得られる利益はその子供や親に帰属するだけでなく、その社会を構成する他の人々にも帰属するといえる。これが、教育には、教育を受ける本人だけでなくその他の人にも利益を与えるという外部効果が存在するという意味である。 それでは、高校教育はこの意味での外部効果があるであろうか。フリードマンはその著 『選択の自由』で高校教育にも外部効果があるとして、教育切符制度を高校教育にも適応すぺきだと考えている。 

 I教育と教育切符制度 しかしフリードマンは、高校より上の専門学校や大学・大学院のような高等教育に関しては、外部効果は存在しないという。 確かに、高等教育を受ける人が増えれば、経済が成長し、それらの人とともに働く人の労働の生産性も高まるであろう。しかし、これらの効果は高等教育に対して政府が助成金を与えることを正当化するような外部効果ではない。これらは機械や工場のような物的資本に関しても同様に当てはまる。すなわち、ある会社が物的資本に投資すれば、それを利用する労働者の生産性も高まる。しかし、企業はそのように労働生産性が高まることによって利益を増やすことができるからこそ、財政的な援助がなくても物的資本に投資するのである。 これと同じょうに、高等教育を受ける人は人的資本に投資しているのであって、将来より高い所得を得られることを期待している。したがって、財政的な援助がなくても、高等しかし、高等教育という人的資本への投資は物的資本への投盗只とは違った側面がある。物的資本への投資の場合には、企業は投資する物的資本そのモノを担保に資金を調達することができる。しかし、個人が教育を受けるための資金を借りるときには、投資の対象である自分自身を担保に提供することはできない。これが高等教育を受ける際に個人が資金を借り入れることを困難にする理由である。

 そこで、フリードマンは高等教育に対しても教育切符制度を提案している。これは、高等教育のために毎年支出されている財政資金の総額を、毎年政府が助成したいと考える学生達の数で割って、その割った金額に等しい教育切符を学生に交付する制度である。教育切符を要求する学生の数が、学生が利用できる教育切符の数よりも多い場合には、試験や家庭の所得などの基準によって、限られた教育切符を学生達に配給することになる。

 で、どうなんだ。学校が、少ない地位地域ではどうするんだ。バウチャーが成立するのは、東京都と大阪府ぐらいではないのだろうか。公立志向が強い地域に、バウチャーを導入するのは、どういったものだろう。かなりの疑問。
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