国家論に凝った時期が、一時期あったので、さらりと纏めてみる。これが正統な道なのか道かも旨く飲み込めていないが、そこはそこで、記してみるだけの意義はあろうかと個人的には思うので・・・。
国家の前提には、社会の捉え方が前提としてある。で、社会とは一体どういった代物なのだろうか。こういった基本的で、原始的な仕組みについてはこだわる必要は無いのかもしれないが、全くの等閑視で望んでも、面白みが無くなるかもしれない。で、社会についてそれほど社会学者は、旨く説明していないように筆者には思われる。
「社会(しゃかい)とは、相互に影響しあう複数の人間によって構成された、比較的大規模な集団・集合体・もしくは共同体のことである。範囲を限定された小規模な集団や組織は社会とはいわず、それより大規模な(かつ相互作用がある)集団のことをいう。19世紀半ばまでの日本語には「社会」という単語はなく、「世間」や「浮き世」などの概念しかなかった。」『ウィキペディア(Wikipedia)』
国家論に凝った時期が、一時期あったので、さらりと纏めてみる。これが正統な道なのか道かも旨く飲み込めていないが、そこはそこで、記してみるだけの意義はあろうかと個人的には思うので・・・。
国家の前提には、社会の捉え方が前提としてある。で、社会とは一体どういった代物なのだろうか。こういった基本的で、原始的な仕組みについてはこだわる必要は無いのかもしれないが、全くの等閑視で望んでも、面白みが無くなるかもしれない。で、社会についてそれほど社会学者は、旨く説明していないように筆者には思われる。
「社会(しゃかい)とは、相互に影響しあう複数の人間によって構成された、比較的大規模な集団・集合体・もしくは共同体のことである。範囲を限定された小規模な集団や組織は社会とはいわず、それより大規模な(かつ相互作用がある)集団のことをいう。19世紀半ばまでの日本語には「社会」という単語はなく、「世間」や「浮き世」などの概念しかなかった。」『ウィキペディア(Wikipedia)』
大概は、ぺディアの様に「社会」という用語は使われるし、それに異論があるわけではない。 が、専門の分野では死語扱いされているのかもしれないが、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトとなる社会用語を聞いたことがある。ので、それについて通観してみるのも余技として、そして洒落としてはあってもいいだろう。ゲマインシャフトが、協同社会であり、ゲゼルシャフトが、労働の対象化、もしくは、人の活動一般としての社会であるという理解を門外漢ではあるが持っている。
マルクスのとても秀逸な定義に、「人間は社会的諸関係の総体である」という言辞があるが、この種の「社会」は、ゲゼルシャフトである「社会」であるのだろう。ちなみに、このマルクスの言辞、つまり、労働の対象化を人間の活動一般をさしているのだと的確なことを述べているのは、三浦つとむ、滝村隆一、外国勢では、全体主義研究家ハンナ・アーレントぐらいが頭に浮かぶが、他にも、まだまだ、多くの研究家がいるのだろうとは思う。そこで、労働の対象化、人間の活動の関係の総体が、人間であるということに読み替えそれが社会であると読み替えることができる。
では、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトの二重性が、社会であるとすれば、そこから、どのような国家観、あるいは国家論が生まれるのだろうか。「社会」をゲマインシャフトよりに重点的に見たとき、「社会」をそのように認識した場合、その国家論は、制度として社会の外にあるものとしてみるか、政府などのような機構として、社会の中にありながらも、実体的な機関として眺めたりするのではないだろうか。あるいは、「共同体」としても眺めることがあるだろう。共同体としての国家は、その共同体の外にまた、他の共同体が存在するということを前提として、成り立つことになる。これが各国のナショナリズムの原型であるのだろうかと思う。近代国家論、近代政治は、この「社会」認識の文脈で語られる。また、ジャーナリズムの追求もこの文脈で語られることに落ち着く。
で、社会をゲゼルシャフトであるとの視点見るとき、そして「社会」認識をゲゼルシャフト的な関係として認識した場合には、「国家は、社会である」「社会は国家である」という北一輝、あるいは、農本主義者、権藤成卿のような社会観でもって、国家を眺めるという視点、思想を抱きやすいことになる。国家は社会足りうる社会は、階級的社会では、実現できない。また、海外の貧困なる人たちを救おうという世界主義的な思想もこのあたりの「社会」認識による社会観を根拠として生まれるではないだろうか。
個人的には、後者の社会観から、「正当」性を求める倫理や道徳めいたものが、出来上がる社会的根拠なのではないかと思う。無論それらの観念性は、ゲマインシャフトに含めて理解すべきものだろうが、「皆さんのお陰でやって来れました」などという言辞は、後者の社会観が規範的な意志めいたものがゲマインシャフト的な社会の存立根拠がにじんでいるように思われる。
北一輝は、ゲゼルシャフトを社会として捉えたが、この視点は秀逸ではあったが、社会をゲマインシャフトとしてみる視点を持たなかったが故に、社会は国家であるという「国家社会主義」に吸引されたのではないのだろうか、と思う。 そして、その国家には天皇制という宗教的イデオロギーと国家権力としてのイデオロギーの特殊性と一般性が、不可分に結びついていた「天皇 即 国家」が存在したのである。