「社会主義は・・・・・・・地理的に限定せられたる社会、即ち国家に主権の存することを主張する者なり。―――-即ち社会主義の法理学は国家主義なり。」「社会主義――法理的に云へば国家主義は国家が目的にして利益の帰属する権利の主体たりと云ふ思想にして主権は国家に在りと論ずる者なり。」『国家論及び純正社会主義』北一輝
ということで、北一輝の説く「社会」主義は、国家が「社会」なのであり、また「国家」が社会なのである。ここから、北一輝の社会主義は民族主義、また天皇制、世界主義まで、大雑把に言って西欧の国家論とはまったく違った国家論的展開を見せることになる。
その論理の様子は、またいずれ引用でも示しながら、門外漢としてみて見たいが、北一輝が組したといわれる2・26事件を起こした青年将校皇道派の理論精神とは、はるかに異なる論理である。
天皇は、国家の一分子として個人的な実体として踏まえられており、忠君は国家に対する反逆であるとさえ述べている。この論理は、国家は社会であるとするゲマインシャフト的認識による国家論から当然に帰結できるのである。というのは、社会は、ゲマインシャフト的社会が国家であれば、相互に個人が社会によって作られ、社会が個人を作るという人間の諸活動は、敵対的な矛盾を結ぶことなく成立する社会である。よって、そこには、相互社会であるための共同の道徳が、生まれることになる。この共同の道徳に、天皇制という特異な制度を含めることは、その特権性が故に認められないからだろう。
また民族主義については、それほどの強調はなく、国家と防衛について語るとき、国家が社会であるとの認識の下では、「徴兵制」についてほぼ肯定的に述べていること、また、世界主義については述べているのは当然の論理的帰結であるだろう。
以上の点は、また後ほど・・・・。いつになるかわらんけどね。滝村隆一の北一輝論読み込んでから・・・・と。