忍者ブログ
主に政治と経済について、思いついたことを語ります。リンクフリー、コピーもフリー
Admin | Write
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

 「安藤大尉は決行将校中最も思慮のある将校といってよかろう。彼は22日の時点までこの決行の去就に悩んだ。しかして彼の参加は歩三の部隊を大挙動員させただけでなく、決行そのものに何倍かの重みを加えた。それほど彼の資性、実力は同志将校間だけでなく、他の将校の間にも高く評価されていた。
 安藤大尉の第六中隊は、秩父宮がかつての中隊長をしていた「栄誉ある」中隊だった。彼と秩父宮の間は親密だった。第六中隊の兵に接する安藤は人情深く、寛厳自在で、下士官兵に慕われていた。そのような彼の資性によって、昭和十年一月には、第二中隊の中隊長になっていた。(中略)」
昭和史発掘 6 p418
 

 相沢事件が起ったときは、歩三は富士山麓の滝ケ原廠舎で演習していた。すぐに帰隊 することになり、御殿場に向かって四列縦隊で行進したが、安藤中隊長は途中で停止さ
せ、回れ右をさせて『あの富士山をもう一度よく見ておけ』といった。どういうつもり で云ったのか分らないが、相沢事件に刺戦をうけたとも思えるし、すでに渡満のことが 判っていて内地への別れにそう云ったようにも考えられる。
 ともかく、こうしたことから何かが起りそうだという動きは感じていたが、二月二十 六日にあんなことになるとは、そのときまで全く知らなかった」
 第六中隊の堂込喜市元曹長に手記がある。堂込曹長は安藤大尉の影響を強くうけた一 人である。
 「安藤大尉はそのころ(昭和四-六年)は中尉で第十一中隊付であった。その頃から、 夜、点呼が終ってから、しばしば下士官室を訪ねて来られるようになった。営内居住を しておられたので、我々営内居住下士官兵と同じようなものだったせいもあろう。軍縮 問題、日ソ関係、農村問題、とくに昭和維新の必要性についてなど夜の更けるのも忘れ 傾聴したものだった。
 昭和維新については軍のおエラ方も承知なんだが、地位や家庭の事情で直接行動はで きないのだ、そこでわれわれ若い者が先頭に立ってやらにゃならん、現状のままでは日 本は亡びてしまう、といっていた。こんな話を二度三度と聞くごとに、大いに刺戟され、 これは偉い方だと心服するようになったのである。
                                               そんなこんなでますます安藤大尉の薫陶をうけるようになった。連隊前の竜土軒や、 六本木あたりのカフェーに連れて行かれたこともあった。
 昭和八年に、私が第一大隊本部付として行ったころ、安藤大尉は第三大隊副官代理で あった。各大隊本部が隣りあわせのため自然とあう機会も多くなった。
 昭和十年には、第一大隊副官代理として坂井直中尉が来られた。ある時、書類を探す ために副官机のひき出しを何気なくあけたら、村中、磯部大尉の書かれた、粛軍に関す
る意見書のパンフレットがあったので、無断拝借で読んでいる所へ、坂井中尉が入って 来られたので、その非をあやまって改めて貸して貰うことにしたが、誰にも見せてはい かんと言う条件付きであった。
 昭和十年十二月、曹長になった時、安藤大尉から第六中隊に釆ないかといわれ、願っ てもないこと、是非中隊長の部下にして下さいと頼んで、第六中隊付となったのである。
 第六中隊に行ってからも、しばしば中隊長室に呼ばれて、いろいろ話は聞かされたも のである。第一旅団副官香田大尉の所から当番が連絡の書類をもってくることもしばし ばあった。
 いよいよ相沢中佐の公判が始まるようになってからは、香田大尉からの連絡も繁くな つた。また公判速記のパンフレットを四、五十部渡され、お前の好きな下士官に配って 読ませろと云われたが、全部配り切れないで、室の手箱にしまったまま、二・二六にな ったのである。
 事件の二、三日前に、中隊長室に呼ばれ、今度渡満したら、お前は中隊長のそばに何 時も居るのだから、護身用としてと、尺二寸の自鞘の小刀を渡された。何を意味したも
のだったか、未だに分らない。昭和十六年八月に応召して満州ハルビンに行く時、この 小刀をもっていった。中隊長の意志に応えるべく終始携帯していたが、終戦後、ソ連軍 による武装解除のおり、没収された。
 また事件の前週、安藤大尉が週番司令で私が週番副官という連隊本部の勤務割りにな っていたが、同じ中隊から司令と副官が同時では教育1困るから俺は来週に延期して貰 ったといわれたが、竺では山口大尉が週番司令だったし、歩三では安藤大尉が週番司 令だったことから、何となく表のつながりがあったように思われるのである」
 安藤中隊長の当番兵だった前島清元上等兵の談話をひく。
「安藤中隊長は将校と兵隊という隔たりを感じさせない人だった。当番兵の私に買物を させることはめったになく、食べもの其他中隊から支給されるものはなんでも満足して いた。給料は袋ごと私に渡し、家に届けてくれ、というのがいつもだった。
 兵隊には絶対に私的制裁を加えなかった。下士官が兵隊を殴ったようなことが分ると、下士官をこっぴどく叱った。兵隊に対する教育は、兵隊教育というよりも人間教育といったほうがふさわしかった。日曜日に中隊身の郵に行くと、農村問題でよくたずねられたものである。
 私は昭和十年末に上等兵になったが、安藤大尉からつづけて当番兵をするようにいわ れた。事件当時も当番兵として指揮班に加わった。安藤大尉は決行の近いのを覚悟して、 当番兵の替る煩わしさを避けたのではないかと思っている。第六中隊の全内務班には中 隊の標語として『必死三昧』という額をかかげてあった。日蓮宗の信者だった安藤大尉 は宗教的な教育をしようとしていたからで、他の中隊にはない標語だった。
 事件前に何かあるなと感じたことがある。安藤大尉に満州で必要だから雪に曇らない 眼鏡を借行社に行って貰うようにいわれたが、そのとき大尉は、
『鈴木侍従長宅の前を通る道で行ってくれ』
 といった。いわれた通り雪の中を歩いて鈴木侍従長邸の前を通り借行社に行った。
 眼鏡を買って中隊に戻ると、大尉は、
『侍従長宅の前には警官が警備していただろう。何人くらいいたか』
 と聞いたので、二人ぐらいしか立っていなかったというと、大尉は、ああ、そうか、 といったきり口をつぐんだ。そのときは何のことだか分らなかった。まさかその鈴木邸 を私自身が襲撃するようになろうとは思ってもみなかった」

 長瀬一元伍長の談話。
「九年の夏、初年兵で富士の裾野の演習に参加した。斥候に出た私は銃剣を落した。革
の繁る原野でいくら探しても見つからない。当時のことで、紛失のままだと自殺もので ある。私ひとりが必死に探していると、一人の騎馬将校が通りかかった。中尉の肩章を つけた演習の審判員だった。その将校から何をしているのだ、ときかれたので、叱責を 覚悟してわけを話した。すると中尉は私を叱るどころか、すぐ馬から降りて指揮刀で革 を払いながら、いっしょに探してくれた。銃剣は中尉が見つけてくれた。中尉は、よか ったなあ、といって、こっちで名前をきくよりも先に馬を走らせて去った。あとで中隊 じゅうの将校を探し、安藤さんと分った。私は安藤中尉に傾倒した。
 

 私が仙台教導学校に入るとき、朝早い上野駅に見送りに釆た将校は安藤さんただひと りだった。手紙の往復をしたが、いわゆる思想的なものは書いてなかった。連隊に帰っ てから二中隊に配属されたが、六中隊の安藤大尉にはいっそう親しくしてもらった。当 番兵の前島上等兵が呼びにくるので行ってみると、大尉は将校室で餅を焼いていて、そ れを馳走になりながら話を聞かせてもらった。私は安藤さんの影響は受けたが、一中隊 の坂井中尉とはまったく関係はなかった」

PR
Comment form
Name
Title
Comment
Password   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
  管理人のみ閲覧可能にする
この記事のトラックバック
この記事にトラックバックする
カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
マクロ経済学の学習
政府、日銀の政策、マスコミの報道に疑問を持つならここを読め
リフレ政策を発動せよ
最新コメント
[10/17 coach outlet]
[10/15 ティンバーランド ブーツ]
[10/11 モンクレール ever]
[10/11 コーチ バッグ]
最新トラックバック
プロフィール
HN:
解 龍馬
性別:
非公開
バーコード
ブログ内検索
カウンター
アクセス解析
フリーエリア
組織の中の人

忍者ブログ [PR]

Designed by