p147 かつて「女王の銀行」とさえ呼ばれたベアリングズがシンカボールにおける投機椒引の失敗で経営が破綻し、オランダの金融機関に買収された。四大銀行の一つであるミッドランド銀行も、香港に拠点をおく香港上海銀行の傘下におかれた。 雇用効果という側面から見てみると、ロンドンにおける証券取引の活発化の結果、イギリスの基幹産業である金融業に従事する人口は、八六年の二四四万人から八九年には二九九万人に増加したと言われている。この点でいうとビッグバンは金融業の雇用にプラスに作用したと言える。 しかし、証券取引所での立会取引がスクリーンでの取引に切り替わった結果、三〇〇〇人以上いた取引所の職員は九六年には九〇〇人に減少した。また、四大銀行の支店が三六〇〇支店も閉鎖されている。 こうしてみるとマクロ的には雇用効果があったが、競争激化のため弱肉強食の世界となり、たえずリストラ解雇の危機にさらされながら勤労者は働かざるを得ない状況である。イギリス経済は活性化したか さて、イギリスのビッグバンは金融業を外部の資金を使って外部に貸し出す「オフショア化(貸し座敷化)」することによりロンドン証券市場を活性化させたと言えることはまちがいない。だが、このビッグバンは、はたしてイギリス経済を活性化させたのであろうか。 実はビッグバンから一年間は順調に証券市場も伸びたのであるが、一九八七年一○月二〇日のブラック・チューズデーにより、一日で二〇パーセントも平均株価が下落するという未曾有の事態に陥った。日本のビッグバン期待論者の一部には、それを株価上昇の契機にしたいという思惑があるが、それは実は期待できないということが、イギリスのビッグバンの経験から明らかである。 イギリス経済は一九九三年頃まで、下降の一途をたどるのであり、失業率も一〇パーセントを大きく超えた。ビッグバンは、長年のイギリス産業界の課題であり悲願でもある中小製造業企業への資金供給メカニズムは、持ちあわせていなかったのである。 九二年のクリスマス・セール・シーズンは厳しいイギリス経済の実状を物語るかのように、「クローズド・セール商店処分セール)」と呼ばれていた。一九八九年の東欧民主化、九〇年のドイツ統一により、ドイツ経済には旧東ドイツを飲み込むための財政赤字が生じ、そこからくるインフレ懸念を抑えるため高金利政策が採用された。ドイツの金利が高くなるとヨーロッパの貨幣資本は高金利を求めて、自国通貨を売ってドイツマルクで運用しようとする。ドイツマルクを中心にほぼ固定相場で運用されているERM(欧州為替相場メカニズム)に加入していたイギリスは、ポンドとの固定された相場を守るために、自国でも高い金利政策を採用せざるを得ず、その結果、イギリス国内は不況に陥ったのである。一九九三年、イギリスはボンド売りマルク買い投機の動きに巻き込まれ、ついに事実上の固定相場制度であるERMから離脱した。そして、ポンド安を導き、産業の対外競争力を回復させて、金利も自国産業本位の低金利に導いて、ようやく深刻な高失業をともなう大不況から脱出できたのであり、九三年を底に株価も上昇に転じたのであった。
サッチャーの構造改革が、幻想の面も含むんではないかということをいいたいわけである。