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 アメリカの大不況期のレジーム転換
 アメリカの大不況からの脱出過程でも,昭和恐慌からの脱出過程と同様の予想インフレ率の大ジャンプが生じた・大不況期の予想インフレ率を推計したCecchetti[1992]によると,予想インフレ率は1933年第1四半期に前期よりも一挙に23ポイントも上昇して,それまでのマイナスからプラスに転じた(図終-1)。
実際のインフレ率がプラスに転ずるのは1933年第2四半期だから,予想インフレ率のプラスへの転換は実際よりも1四半期先行していたのである。
 
 一方,生産は予想インフレ率がプラスに転じてから3カ月ほど遅れて,1933年第2四半期から安定的に拡大し始めた(図終-2)。
 この予想インフレ率の大ジャンプには,2つの事件が関わっていた。第1は,連邦準備銀行(theFederalReserveBank,以下,FRB)が1932年4月から国債買いオペを急増させたことである(図終一3)。これは1932年2月にグラス=ステイーガル法(連邦準備法の一部改正)が成立して,FRBは金・適格手形に加えて,国債を購入できるようになったからである。この金融緩和政策への転換を反映して,Cecchettiが推計した予想実質金利は,1932年4月をピークに低下し始めた.しかし,1932年第4四半期までは,予想インフレ率はそのマイナス幅が縮小するにとどまり,プラスには転じなかった(図終-1)。
 
 このように,1932年4月に開始された国債買いオペの大幅増加が本格的な予想インフレ率のプラスへの転換をもたらさなかったのは,買いオペを32年半ば以降中止してしまったからである。中止したのは,当時のFRB首脳が「市中銀行の超過準備状況から判断して金融は十分緩和している」,「金融緩和によりデフレ・スパイラルは食い止められた」,「これ以上の公開市場操作は意味を持たない」と判断したからである(Hsieh and Romer[2001],堀[2002c]に紹介)。FRBがこのような金融政策のスタンスを取り続ける限り,民間経済主体は,「FRBは金融政策のレジームをリフレ政策に転換した」とは受け取らない。そうである限り,大規模な金融緩和といえどもその効果はきわめて限定的なものにとどまってしまう。
 
 現在の日銀も,このときのFRB首脳と同じように,2000年8月11日にゼロ金利政策を,「デフレ懸念は払拭された.これ以上のゼロ金利政策は物価の安定にとってマイナスである」と判断して解除してしまった.日銀はアメリカの大不況期の金融政策の歴史にまったく学ばなかったのである。
 
 大不況の1933年第1四半期に,予想インフレ率が32年第4四半期のマイナス1・21%(年率)から22%(年率)へと大ジャンプしたのは,フランクリン・ルーズベルトが32年11月に大統領選挙に勝利し,33年2月になって,「商品価格を上昇させる努力の一環としてぅ平価切下げを真剣に議論し始めた」(Temin[1989],邦訳127ページ)ことを,市場が「金融政策がフーバー大統領のデフレ容認政策からリフレ政策へとレジーム転換した」と受け取ったからである,と考えられる。
1933年4月の金本位制からの離脱は金融政策のレジームの大転換であり,
人々のデフレ予想をインフレ予想に大きく変える上で,象徴的な大イベントであった.
 
 もちろん,このようなインフレ予想への転換が裏切られないためには,その後も金融政策がリフレを目指して運営され続けなければならない.1933年5月に,FRB議長が保守派のユージン・メイヤーから,ルーズベルト大統領のリフレ政策に協力的なエージン・ブラックにかわると,FRBは従来の保守的な姿勢を完全に転換した.その結果,1932年半ば以降減少傾向を示していたFRBの国債保有比率は再び急上昇に転じた.大幅なデフレ(消費者物価で見て)はそれからわずか5カ月というきわめて短い期間で終息し,前年比インフレ率はプラスへ転換している。
 
 このように,アメリカの大不況のケースでは,金融政策のレジーム転換は,第1段階がFRBによる大規模な国債買いオペの開始であり,第2段階が金本位制からの離脱であった。アメリカと日本では,中央銀行による国債購入の開始と金本位利からの離脱との順序が逆であるが,いずれも,同じようなリフレ・レジームヘの転換が生じ,同じような形でデフレの終息が生じている.どちらの場合も,①制度的に緊縮的な金融政策を強制する金本位制を停止すること,および,②大規模な国債買いオペ政策あるいは国債の日銀直接引受けといった超金融緩和政策が実行されることによって,デフレは終息したのである。
 
 このような,誰の目にも明らかな政策レジーム転換がデフレの脱却に対して,いかに重要なものであるかは,もはや明らかであろう。アメリカの大不況からの脱出についても,当時の失業率(アメリカの場合1933年には24%まで上昇していた)等の指標を見れば明らかなように,昭和恐慌からの脱出と同様に,デフレから穏やかなインフレへの転換は,財・サービス市場の需給逼迫の結果起こったものではない。デフレからの脱却は,貨幣供給量の増加に裏打ちされた金融政策の基本的なルールの変更の結果なのである。
 
 そして,アメリカがデフレからの脱出に成功した後に大不況を終焉させたのは,戦時の財政支出の増加ではなく,ヨーロッパからの金の流入の結果生じた。
 ノーマルな時期を大幅に上回るマネーサプライの急速な増加だったことを,Romer[1992]は単純な計量モデルのシミュレーションによって鮮やかに示している。ただ,FRBはこのときのレジーム転換の意義を十分に理解していなかった。
 
 そのため,FRBは銀行の超過準備が増加するにつれて,それを解消しようとして,1936年から37年にかけて所要準備率の引上げを実施した。   
 Cecchetti[1992]は,このとき予想インフレ率の低下により,予想実質金利が大きく上昇したことを示している。実際に1938年には実質経済成長率はマイナス5%に落ち込み,デフレも再燃し,アメリカ経済は再び激しい景気後退に見舞われてしまったのである。
岩田 規久男
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